相蘇 一弘
『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より
◇禁転載◇
はじめに 一 大塩は高井を追って出府したか −今井克復説批判− 二 長尾才助書留について 三 天保二年春、大塩の出府 おわりに
仲田は『大塩平八郎建議書』解説のなかで、幸田成友が今井克復の談話を否定する根拠は、「これが伝聞であること、詩文・尺牘など大塩本人が語ったものがある、などである。伝聞かならずしも誤りとはいえず、本人のアリバイ証明では、反証としては弱い。(中略)今井克復翁の談話は説得力があり、鵜呑みにすることも問題であるが、葬りさって良いものでもない」と幸田を批判している。確かに伝聞には一片の真実を含む場合も多く(5)、「伝聞必ずしも誤りとはいえ」ないことは認めるが、伝聞史料を論拠とする場合には充分な史料批判が必要であり、無批判に引用したのでは説得力に欠けると言わざるを得ない。また「本人のアリバイ証明では、反証としては弱い」という幸田への反論については、「辞職之弁并詩」などの史料は、大塩がアリバイ証明をしなければならない立場にあった状況下で書かれた文章ではないのでこの指摘は当たらないと思う。幸田が今井説を否定した論拠を要約すると、
(1)町与力が幕府に登用される難しさは大塩も承知していた筈で、承知しながら要求したとは考えられない。
(2)今井が窪田から「年経て」聞いた話では信用できない。「歳月の経過は事実の添加或は虚構を生ずる例に乏しく無い」からである。
(3)富士登山は天保四年の秋で、それ迄に江戸へ往ったという証跡はない。
(4)大塩は天保四年の佐藤一斎宛書簡で「東行の機を俟つたが今にその時なく」と言っている。これは大塩が天保四年までに江戸に行っていない証拠である。
(5)匹田竹翁『洗心洞餘瀝』に「槍を立てさして歩行廻るのは真平御免」(仕官はしたくない)と言ったとある。
(6)大塩の「辞職詩并序」や荻野四郎助宛の書簡内容からも江戸出仕説は信じられない。
以上の六点になる。幸田成友『大塩平八郎』は明治四二年版と昭和十七年の改定版では若干表現が異なるところがあるが、論拠は変えていない。このうち(4)が最も重要な指摘と思われるが、実はこれは真実ではなく(この点については後述する)、結果的には幸田の説明では今井克復の談話を否定する根拠としては確かに決定打に欠ける。五〇年も前の記憶に基づく話がどの程度信頼できるかについては甚だ疑問を感じるが、この点については今不問に付すにしても、今一度今井の談話内容を分析し、史料の信頼度について検討を加える必要があると思われる。長くなるが今井克復の談話を注(6)に引用して置く。
今井は「(大塩は)自分が頼りに採り用ひられました所から、関東よりも召出されまして、一廉の役人に採用せられたいが一念で、夫れが出来ぬところから、常に政事を批判いたしまして、其ツゞマリは全くは其一念から、アノ事が起った様に思はれます。」と結論づけたあとで、大塩が高井を追いかけて出府したという一件について述べている。ポイントを順に整理する。
@大塩は高井の抜擢で上席に進んだので、更に江戸幕府での登用を懇願、高井も大塩の意を酌んでいた
A高井は文政十二年に幕府から参府を命じられた。参府は転役に決まっている
B大塩は他日江戸に行くからと、心願の取り継ぎを高井に強く頼んだ
C出立前、高井は密かに「与力身分では昇進できぬから、先ず江戸で御家人株を購入せよ」と大塩を諭した
D大塩は高井実徳と交替の曽根日向守の着坂時に隠退した
E江戸に行った高井は「以ての外にシクヂッテ」、西の丸の御留守居になった。この役は大坂町奉行より下 役で、いわば隠居役である
Fその後大塩は江戸に出かけ高井を訪ねた
町与力はたとえ譜代になっても御目見以上の役人に出世するのは難しい
G地方の者は秀才でも登用されることはなく、それを大塩は強く願ったから高井は困った
H高井が参府すると大塩は直ちに隠居した。このとき大塩は三十七、八歳であった
以後武術学芸を教え、書生を置き、諸国から尋ねて来る者を家に寄宿させた
勤役中に頼山陽も来たことがあり、大塩を誉めたようである
佐藤一斎とも文通して誉め、大塩は江戸御用の序でに佐藤を訪問したことがある
Iわざわざ江戸に出た大塩は、高井に予ての約束の履行を迫った
J然し、高井は「シクヂッて仕舞ふ」たので、大塩の言うことを履行も周旋もできなかった
Kそこで、とうとう高井は大塩を登用することはできないと断った
この話は洗心洞寄宿生の窪田英治が大塩の供をして江戸に行き、年を経て自分に話したことである。
Lこの江戸参府の帰りに富士山に登った
M大塩は富士の裾野で陣屋にはどの辺が良いなどと言って図を引いた。とても正気とは思えなかった
N帰宅後一年計り経っても、大塩の一念は抜けぬと見え、再度江戸へ出かけた
Oそれは天保三四年頃のことであったが、高井は会わなかった
この今井の談話のうち、@「(大塩が)江戸に出て一廉の役人に取用ゐられたいと云ふことを懇願いたしたものであるから、高井も其意を酌みて居りました」などという、誰にも証明できないような事柄についてはさて措き、客観的な史実として捉えられる事柄に限定して検討することにしよう。まず今井がA「文政十二年に、高井は参府を申付られた。参府と云ふと転役に極っている」(7)、E「高井が引受けて江戸表に参ると、以ての外にシクヂツテ、西の丸の御留守居になりました」と述べている点に注目したい。
【注】
(5) 拙稿「大塩の乱と大阪天満宮」(『大阪天満宮史の研究』第二集、一九九三年思文閣出版刊)
(6) 仲田が引用する『史談会速記録』の今井克復の談話は以下の通りである(『大阪編年史』第十八巻から再引)。
一体その大塩の事ハ、只今から取りまして見れバ、余程時勢が変つて居るから、大層な事に申しますけれども、其時の事ハ、今日の考とハ大に相違致しますことで、アレ程の檄文を出したり、大層趣意のある事の様に申しますけれども、丸で発狂人の所為の様な事になって仕舞ふてあります。一体大塩の事を考へるに、其時の事を御承知下されぬと、実に思の外の事で、平八郎の性質を御承知になりますと、全く原因と申ものが分る様なことで、何も其深い事でハござりませぬ。自分が頼りに採り用ひられました所から、関東よりも召出されまして、一廉の役人に採用せられたいが一念で、夫れが出来ぬところから、常に政事を批判いたしまして、其ツゞマリは全くは其一念から、アノ事が起った様に思はれます。(中略)段々高井が用ひて、年若の者が席を進みました所から致して、江戸に出て一廉の役人に取用ゐられたいと云ふことを懇願いたしたものであるから、高井も其意を酌みて居りましたが、文政十二年に、高井は参府を申付られた。参府と云ふと転役に極って居る事で、夫れに就きて平八郎は他日江戸に出ますから、予て心願の趣を御取扱を願ひたいと云ふことを強て申しました。高井は江戸に出立する前、密に平八郎に諭したことがある。其頃は江戸に出るとて容易に望の通りにハ出来ぬ趣意と、又江戸に出る心ならば、与力は一旦退かずハ与力のまゝにては昇進は出来かぬれば、責ては江戸にて御家人の株に入、身分を替たる上でなけれバならぬ。是迄与力の勤方に取てハ、十分勲功も遂た事なれバ、高井の参府した後は、直に与力は退職すべしと懇々言ひましたから、高井と交迭の曽根日向守着坂の始めに退身しました。扨高井が引受けて江戸表に参ると、以ての外にシクヂッテ、西の丸の御留守居になりました。是れは大坂の町奉行よりは下の役で、言はゞ隠居役である。其後大塩が江戸に出かけて高井へ参りました。全体諸組与力と申しまするは、譜代もあれども、大坂の町奉行組与力は御抱へ席と云って、一代限で、倅に跡を継ぐ時は、親某願の通御暇下さる。倅某番代申付との達しに成ます。此番代と申まするは、奉行所の事を昔は番所と申たるからして云来りました唱へて、則奉行所に訴所と申場所を当番所と当時迄も申来ました。譜代になりますと、親某願之通隠居、倅某家督仰付られ、親某へ被下高、其侭之を下さるとの申渡に成まするゆへ、世襲判然で、御抱席とは格合か大に違ひます。たとひ御譜代席に成ましても、又目見以上に成り、一廉の役人になるは容易に登らるゝものではない。夫れを強く願ったものであるから、高井も困って、殊に其時代には、夫々従前役順の続きがあって昇進する仕来りで、遠国の者が仮令秀才でも呼出されて時めく様なことは決してないものである。前に申しました通り、高井は江戸に帰ると、大塩は直ぐに引ました。其時は三十七八歳であった。夫れから文武両道の先生と唱へて、元の居宅に居って、武術・学芸を教へ抔して、書生を置き、又諸国から尋て参ります武者修行の者を家に置き、既に其前勤中、頼山陽先生抔も来られたことがある。又江戸に御用の序でに、佐藤一斎先生を訪ふたこともある。頼山陽の来た時は、山陽はアゝ云ふ才のある人であるから、大塩を大に誉めた様子で、佐藤一斎先生も文通を致されまして、大層大塩を誉られたこともある。与力にはめつらしきものと申された位で、扨態々大塩が江戸に出て、高井の所に行って、予ねて約定のことを取計ひの道がないかと云って迫ったけれども、何分高井はシクヂッて仕舞ふて、大塩の云ふことは採用も出来ず、周旋も容易ならす、高井も断はる気になって、大塩の身分の取扱ひは迚も出来ぬと云ふことに申切って仕もふた。夫から平八郎が帰る時の次第は、私は其事を一向存ずる訳はござりませぬが、平八郎の家に幼年より寄宿致して居ました窪田英治と云ふ者ハ、私の懇意に致します隣家の医者の息子でござりまして、是れが大塩の供に参りまして、高井家の事抔も年立て私に話ました。其の時の帰りには富士山に登りまして、裾野で誠に発狂と(し)か思はれぬのは、陣屋にはドの辺が善から(ふ)抔と云ふて図を引きまして、唯々陣を敷くには何処が宜らふ、彼処が宜からふと云ふたこともある。其時から正気とも思はれぬ様なもので、夫れから又宅に帰りまして一年計たちましても、ドウかして出たひと云ふ一念は抜けませぬと見へて、再度江戸表へ出ました。其時は天保三四年頃で有ました。高井は逢はれませぬでした。夫れから只々自分の存じます所が思ふ様に行かぬ所から、政府の取計ひ向きを色々批判致しまして、ドウも高井を怨みまする様な気味がござりまして、子弟を教へます所は学問の道であるから、不条理なこともなく、正当のことを以て教ふるものであるから、門人には敢えて狂心ある人とも存じませぬ所から、夫を信仰せぬ者はござりませぬ。中々今の人の申す様に、誰れも彼れも尊信したと云ふことでは決してござりませぬ。
(7) 『大阪編年史』第十八巻では高井の致仕した年を文政十二年としているが、仲田の引用文では十三年となっている。高井が致仕した年は文政十三年が正しい。
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