Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.4

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」
その4

相蘇 一弘

『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より

◇禁転載◇



二 長尾才助書留について

 以上のように今井談話の史料的価値は低いと言わざるを得ないが、仲田は「この今井克復翁の談話と、次に紹介する内藤矩佳の話は、付合する」として自説を補強するために、『大塩平八郎建議書』所収の「長尾才助書留」を提示している。

 長尾才助は、大塩から老中に宛てた書類を発見して写しを作成した伊豆韮山代官江川太郎左衛門(坦庵)の江戸詰手代である。長尾は江川の命を受けて天保八年三月晦日に「大塩平八郎為召捕手代差立候御届書」など三通の書類を内藤矩佳に届けた。内藤は大坂町奉行から勘定奉行に転じ、大塩から老中に宛てた天保八年二月十七日付書状で大坂時代の不正を指摘された人物である。この書留は長尾と内藤の用人星野利助との応対の際、内藤から江川へ伝えるように求められたもので、これが記された時点では既に大塩が老中に宛てた書類の存在を幕府中枢は把握しており、飛脚から預かった荷物を切り解いて逮捕され破牢した無宿清蔵は再逮捕されている。また大塩はこの月の二十七日に大坂で自刃しているが、内藤も江川もまだ大塩は何処かに潜伏中と認識している状態であり、この文書は内藤が「富士野辺大石寺当り駿河路筋」が怪しいと思うので江川に探索して欲しいことを伝える内容である。次に必要箇所を掲げる。

 仲田は『大塩平八郎建議書』解説で、この史料が今井克復談話と付合するとし、「高井実徳の周旋による江戸での仕官の道がとざされた後も、大塩は江戸にとどまり、なお手づるを求めて諸方広く交際して歩いている」「この時、水戸藩関係者、林大学頭らと往来し、反忠成派老中方とも接触していたと考えられる」と述べ、「大塩が、仕官を求めて長く滞府した事実」と、大塩が辞職後高井を追いかけて江戸に行き、長く滞在して猟官運動をしたことは既定の史実であると断定している。

 この長尾才助書留のうち、仲田が今井の談話と付合するという箇所は冒頭から「彼之大石寺抔をも存居候哉之由」までで、大塩が富士山周辺に現れる可能性が高いことを理解させるために大塩の江戸参府一件について記したものである。この文書は、誰が記したから分からない風聞を記したものではなく、大塩の乱に強い関心を抱く当事者に係るものであり、その意味では史料的価値の高い史料である。しかし、そのことと、この文書に記される内容が史実であるかは別問題である。たとえ一級の史料であっても、本人が体験したこと、或いは本人からの聞書でなければ、そのような噂があったことや筆者がそう思ったことの証明にはなり得ても、記す事柄が史実であることの証明にはならない。

 このような視点からすると、この史料は仲田は「これは隼人正(内藤)、此度山城守(高井実徳)様より被承候もので確度は高い」としているが、本文は「右隼人正此度山城守様より被承候儀ニも有之候ニ歟」と推定の形になっているので、「確度は高い」とは言えないものである。また、ここに記す大塩の出府についての記事は「山城守様ニも同年暮歟翌寅春歟聢と不覚」という曖昧な記憶に基づくもので「御出府被成候ニ付、其節隠居ニ成候而哉」、「其砌駿河路富士野辺ニも暫ク逗留いたし居候哉之旨、彼之大石寺抔をも存居候哉之由」など、「哉」「由」という推測や伝聞を表す語句が度々用いられている。

 この史料の信頼度の穿鑿はひとまず措くとして、その内容について検討しよう。既に述べたように高井の江戸出府は九月であり、辞職が正式に認められたのは十月廿七日であった。長尾才助書留には「御同人(高井)御跡をしたひ、平八郎儀も心願等有之出府いたし、夫々相稼候内、山城守様御願之上御役御免被為成候」とある。この史料では大塩は高井の後を追って出府し、しばらく稼いでいる(28)うちに高井が「御願之上」退職した(この点は今井説と異なる)としている。従ってこの史料によれば大塩が出府したのは九月か、遅くとも十月で、十月下旬まで猟官運動をしたことになる。また高井が辞職したので大塩は「空敷心願も相止メ、夫より風流之道ニ入、久鋪御府内ニ罷在、且諸方広ク押歩行、其砌駿河路富士野辺ニも暫ク逗留」とある。これは大塩は望みが断たれたあと、十月下旬から久しく「御府内」つまり江戸市域に止まり、それから更に諸方を探索したことを意味するものである。「久鋪」がどれ位の期間を指すのかは不明であるが「風流之道」に入ったのであるから長期間、少なくとも数か月のイメージが強い。大塩の退職後、九月から十二月までのアリバイについては前節に記した通りであることから、長尾才助留書が今井克復の談話を補強し、大塩が高井を追いかけて参府し猟官運動をしたということを証明するものでないことは明らかである。


【注】
(28) 「稼ぐ」は努力して自分に有利な状態にもっていく、相手の気に入るように働いて成績や評価を高める、つまり猟官運動を意味する。


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石崎東国「大塩平八郎伝」その43


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」目次その3その5

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