Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.5

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」
その5

相蘇 一弘

『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より

◇禁転載◇



三 天保二年春、大塩の出府 (1)

 それでは、大塩は辞職後一度も江戸には行っていないのだろうか。幸田は『改定大塩平八郎』に「天保四年まで江戸へ行かなかつたといふ証拠がある」として、天保四年に大塩が佐藤一斎に宛てた真文(漢文)書簡を引用し、「彼は甞て愛日楼集を読んで一方ならず一斎を敬慕したが、在職中は吏役簿書に束縛せられ、寸歩尺行と雖も恣にし難く、また辞職家居後は私讎州の内外に充斥し、蠖屈して東行の機を俟つたが終にその時なく、一斎は既に年六十を踰え、自分はまだ四十一ながら、孱体多病、終に遭遇の期なきを保せずと言つて居る」(29)と記している。しかし、幸田が引用した箇所に大塩が記したことは、実は半分は真実で、半分は事実に反している。大塩は天保二年の春、内々に極く短期間ではあるが江戸に行っているのである。但しこの時は佐藤一斎を訪問していないので、一斎宛書簡に大塩が「僕雖未獲仰眉宇聴謦咳(僕未だ眉宇を仰ぎ、謦咳聴くことを獲ずと雖も)」と記したことは確かに間違いではない。この件について次に検証することにしよう。

 大阪市立博物館所蔵の大塩から佐藤一斎に宛てた五月二十四日付、七月二十一日付、十月七日付の三通の書簡を一巻に表具した書状巻の奥書に、嘉永四年六月、一斎は次のように認めている(30)

 この巻物は大塩が寄越した真文と俗文書簡に係るものである。自分は大塩の名声を聞いていたが面識はなかった。昔彼は江戸に来て林述斎に面会を乞うたことがある。当時、自分の家は林邸内にあり、彼は家の前を通ったが入らなかった。人がその訳を尋ねたところ彼は「今度の旅行は林氏に会うためであり、佐藤氏に会うためではない、だから入らなかったのだ」と答えたという。その言葉には理があるようだが、意は怪しむべきである。のち彼は真文書簡を送ってきた。論理、文章ともに見るべきものがあったが、私は俗文で答え漢文では答えなかった。その人物に理解できないところがあったからである。

 と、このように一斎は記している。この文章からは大塩が林述斎を訪問する目的で江戸に来た年はわからないが、大塩が自由に大坂を離れることができるようになったのは辞職後のことである。またこの文の冒頭に「此巻は浪速人大塩後素寄する所の真文及俗簡に係わる」とあることから大塩が江戸に来たのは天保四年六月以前になる。大塩が佐藤に真文書簡を出したのは天保四年六月、一斎がそれに俗牘で答えたのは七月朔日であるからである(31)。それでは、大塩は辞職後いつ江戸に行ったのだろうか。名古屋の大塩本家所蔵文書のなかに、大塩が四月六日付で当主の波右衛門に宛てたつぎのような書簡がある。

 この書簡は某年四月六日、江戸からの帰途、宮(熱田)から出されたもので、本家に立ち寄って「御弓御蔵并御亭等之御造立拝見之上、御園之躑躅をも賞玩」する予定であったが「無據用向有之、一旦急ニ帰宅」することを告げるものである。  大塩は在職中から始祖の大塩波右衛門が徳川家康から拝領した弓を見るために名古屋の本家を訪ねたいとの宿願を抱いており、辞職を待ちかねてこれを実現している。すなわち文政十三年九月二十八日に大坂を出発して十月八日に名古屋に着き念願を果たしたが、本家で弓蔵などを早急に修理する必要があることを知って、その費用を捻出するため密かに大坂に戻って五十両を用意して送金、十月二十一日に再び名古屋に向けて出発している。再度の名古屋本家訪問から大塩が帰坂したのは十一月二日である(32)。本家との間にこのような事情があったことから、大塩は上記書簡に記す出府の帰途に立ち寄って、自らの援助で修理が進んでいる弓蔵などを見る予定であったが、急用ができて予定の変更を余儀なくされたのである。従って本書簡は普請費用捻出のために名古屋から密かに大坂に戻った文政十三年秋に続く年、つまり天保二年四月と推定することができる。大塩は鳴海で土産まで用意しているので江戸を出立したときには訪問する心積りであったと思われる。大塩から土産と上掲の書簡を受け取った波右衛門は四月八日付で大塩に礼状を出し、大塩からは四月十四日付で、九日に無事に大坂に帰ったこと、御弓蔵などの普請がほぼ完成したことを知らされて大いに喜び、秋には必ず訪問したいと返事を出している(33)


【注】
(29) 佐藤一斎宛の大塩自筆真文書簡原本は大阪市立博物館蔵。原文は「僕今乃辞職家居、如宜東行侍函丈自在然、然而不能遂其事、又何耶、以私讎充斥乎州内外、蠖屈乃俟時、俟時而終無其時、則聞 先生年既踰六十、而僕雖四十又一、体孱病多、安知無失遭遇之期哉(僕今は乃ち職を辞して家居し、宜しく東行して函丈に侍すること自在なるべきが如く然り。然り而して其の事を遂ぐる能はざるは、又た何ぞや。以私讎の州の内外に充斥するを以て、蠖屈して乃ち時を俟てり。時を俟ちて終に其の時無く、則ち先生の年既に六十を踰えたるを聞く。而して僕は四十又一と雖も、体は孱く病多し、安ぞ遭遇の期を失ふこと無きを知らん哉)」。
(30) 高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』(大正十一年、南陽堂刊)に「未刻本の愛日楼全集第三十巻にも左の一篇あり」としてこの文を載せる。文章は大阪市立博物館の自筆本に「真文及俗簡」とあるところが「真文書」となっている以外は同文。また、石崎東国『大塩平八郎伝』天保二年条の欄外にも「佐藤一斎云、往年後素来江都謁林祭酒過余舎而不入、云此行為見林氏不為見藤氏故不入也ト」と一部が収録されている。
(31) 大阪市立博物館蔵の一斎宛真文書簡の原本に「癸巳夏六月」とある。また、『洗心洞箚記附録抄』所収の一斎の俗文の返書に「七月朔書封」とある。

(32) 文政十三年十月十五日付大塩波右衛門・岩吉宛の大塩書簡(大塩明人氏蔵)に「其節御内話申上候事も御座候付俄ニ帰坂、則昨十四日暮後無滞帰宅仕候へども、いまた尊館ニ滞留之よしニ世上申成し御座候」と内話の件を履行するために密かに大坂に戻り、次に「御内話申上置候金五拾両ハ則私手当金之内ニ御座候間差上候(中略)御修復之処ハ呉々御随意ニ可被遊候、御弓入之御小土蔵ハ御修理御座候様奉祈候、私拝借之御裏手御書斎、御立広者随分質素ニ成し可被下候、古キ木抔ニてザツト成し置可被下候」と、五十両を弓蔵や書斎などの修復のために都合したこと、そして「其内又々参上可仕間、何分宜奉希上候、(中略)私義宅より無言ニ相立候ニ付、実ニ帰坂不致と不残存居候間、左様思召可被下候」と、そのうちに又参上するが黙って出るので誰も帰坂したとは思わないだろうと記している。
 この後、大塩は格之助が波右衛門に宛てた十月二十三日付書簡(大塩明人氏蔵)に「此間ハ同苗儀、尊館ニ而滞留之積りニて内々帰着仕、猶又一昨廿一日当表出立仕、其御地へ参上仕申候」とあるので、十月二十一日に再び名古屋に戻ったことがわかる。そして、帰坂したのは坂本鉉之助に宛てた十一月十六日付書簡(大阪市立博物館蔵)に「当月二日に帰坂仕候」とあるように十一月二日であった。

(33) 天保二年四月十四日付大塩波右衛門宛書簡(個人蔵)に「八日出之貴報、今十四日到来拝読仕候(中略)私義も無事当九日夜帰坂仕候(中略)御端書中被仰下候御蔵御亭等も逐々御出来立之由大悦仕候、当秋頃ハ必御訪可申上候」とある。


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