Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.3

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」
その3

相蘇 一弘

『大坂城と城下町』
(思文閣出版 2000) より

◇禁転載◇



一 大塩は高井を追って出府したか −今井克復説批判− (2)

 大塩は「辞職詩并序」(8)で「公年垂七十其秋七月上養病之疏、而未允(公年七十になんなんとし、其の秋七月、病を養ふの疏を上し、而して未だ允されず)」と記している。高井は文政十三年の七月に自ら病気療養を願う「疏」(上奏文)を提出したのである(9)。『柳営補任』巻之十九の「大坂町奉行」の項には「高井山城守実徳 文政三辰十一月十五日山田奉行ヨリ 同十三寅九月病気ニ付為保養参府 同年十月廿七日辞」とある。つまり、七月に病気療養を願い出た高井実徳は九月に病気保養のために参府して辞職を願い、十月二十七日付で正式に認められたことがわかる。『柳営補任』では「辞」と「御免」を使い別けており、高井は「御免」になったのではなく自ら「辞」したのである。従って、高井は今井が述べる様に「以ての外にシクヂッ」たわけではないので、当然ながら「西の丸の御留守居」どころか何の職にも就いておらず、十月二十七日に辞職して、旗本のうち禄高三千石以上の非職の者を指す「寄合」になっている。このことは、『柳営補任』巻之六「田安家家老」の項に「高井山城守実徳 文政十三寅年十二月二日寄合ヨリ 元大坂町奉行 天保五年十一月日卒」とあることで明らかである。一旦辞職した高井は、文政十三年十二月に田安家の家老になり、天保五年十一月に死去したのであった。

 以上、高井は今井の言うように「参府を申付られた」のでも、「以ての外にシクヂッ」たのでも「西の丸の御留守居」になったのでもない。従って、今井の談話中、IJK「態々大塩が江戸に出て、高井の所に行って、予ねて約定のことを取計ひの道がないかと云って迫ったけれども、何分高井はシクヂッて仕舞ふて、大塩の云ふことは採用も出来ず、周旋も容易ならす、高井も断はる気になって、大塩の身分の取扱ひは迚も出来ぬと云ふことに申切って仕もふた」というまるでその場に居たような話は根底から崩壊せざるを得ないのである。

 次にD「高井の参府した後は、直に与力は退職すべしと懇々言ひましたから、高井と交迭の曽根日向守着坂の始めに退身しました」という一条についてであるが、高井の参府は先に記したように文政十三年九月である。また、大塩が辞職を申し出たのは頼山陽の「送大塩子適起尾張序」に「今茲七月、高井君告老請代、子起作曰、君退吾烏敢独進、遂決意、力請退得允(今茲七月、高井君老を告げ代を請ふ。子起作て曰く、君退く吾烏ぞ敢て独り進まむ。遂に意を決し、力めて退くを請うて允を得たり)」とあるが、大塩が隠居して格之助に家督を譲ったのは八月、退番届を正式に役所に提出したのは九月中旬であった。(10)ところが、高井の後任の曽根次孝が大坂町奉行に任命されたのは十一月八日である。(11)従って、大塩が辞職したのは「(高井が)懇々言ひましたから」ではなく、その時期も今井の言うような「高井の参府した後」ではなく、「曽根日向守着坂の始め」でもない。大塩が辞職したのは曽根の大坂町奉行着任より二か月も早いのである。このように検証すると今井の談話はかなりの部分で史実と異なっていることがわかる。

 ところで、今井の談話では大塩が高井実徳を追って江戸に出府したのはいつのこととしているだろうか。今井は時期を明記していないが、F「其後大塩が江戸に出かけて高井へ参りました」とある「其後」は文脈から「高井が(中略)以ての外にシクヂッテ、西の丸の御留守居に」なった後でなければならない。既述のように高井は「西丸御留守居」になってはいないが、これを仮に「寄合」になった日付に置き換えると、十月二十七日以降のことということになる。史実はこの通りであるが、いずれにしても大塩が猟官運動のために高井を訪問したとすれば出府した時期は今井の話の趣旨から言って、高井の参府直後でなければならない。そこで、辞職後の大塩の行動日程を書簡等から調べてみると、

 このように、十月二十七日以降であろうと、それより前であろうと大塩は辞職した文政十三年の秋から冬にかけて江戸には行っていないことがわかる。また今井はL「(高井を追って江戸に行った)其の時の帰りには富士山に登りまして」と述べているが、この当時富士登山は夏以外は無理であり、今井が主張する大塩の出府の時期とは合わないことになる。また当時は冨士講などの信仰による登山以外には目的もなく山に登る時代ではなく、文政十三年の秋から冬にかけて大塩が富士登山をする理由がない。今井が大塩と高井しか知り得ないようなこれら一連の話を知ったのは、幼年より洗心洞塾に寄宿していた窪田英治(今井が懇意にしてた隣家の医者の息子)から「年立て」聞いたのだとしているが、大塩が『洗心洞箚記』を富士山頂の石室に納めたのは天保四年七月のことであり、窪田がこの旅に同行した可能性はあるにしても(27)、この富士登山の話は天保四年七月のこと以外には考えられないのである。

 また、今井は「夫れから又宅に帰りまして一年計たちましても、ドウかして出たひと云ふ一念は抜けませぬと見へて、再度江戸表へ出ました。其時は天保三四年頃で有ました。高井は逢はれませぬでした」としているが、辞職直後の出府が否定されればこの記事の信憑性を云々する必要はないだろう。仮に大塩が猟官運動をした時期を文政十三年ではなく天保三、四年頃のことと読み替えても、辞職後三年も四年も経ってはじめて猟官運動を開始するのでは意味をなさないと思われるからである。


【注】
(8) 中尾捨吉編纂『洗心洞詩文』所収。明治十二年刊。
(9) この点について大塩の言だけではなく、頼山陽の「送大塩子適起尾張序」に「今茲七月、高井君告老請代(今茲七月、高井君老を告げ代を請ふ)」とある。この文章は天保六年精義堂版『洗心洞箚記附録抄』に所収されるが、埋木で一部しかわからず、井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』明治三十三年刊に補記されている。

(10) 大塩が辞職した時期は、従来大塩の「辞職之詩并序」に基づき、文政十三年七月であるとされてきた。ところが文政十三年九月十二日付の秋吉雲桂宛書簡(大阪市立博物館蔵)には「僕退隠の義につき同伍のものを以って、早々に差し出し」云々とある。退隠について同じ組の者をもって早々に(役所に)提出するというのである。従って、大塩が正式に退番届を提出したのは早ければ九月十二日、遅くともその数日後である。また、「辞職詩并序」に辞職した翌朝の心境を詠んだ七絶詩に「秋菊東籬潔白花」とある。菊は一名長月花、陰暦九月を菊月ともいい、このことからもこの文章が綴られたのは九月でなければならない。更にこの「辞職詩并序」には「公、年七十に垂し、其の秋七月病を養ふの疏を上し、而して未だ允されず」とあるが、七月に辞職願を提出した高井実徳が参府したのは九月で、正式に職を辞したのは十月二十七日であるので、この文章は七月ではなく九月に書かれたと解して矛盾がない。ところが、上記の退番届のことを記した秋吉雲桂宛九月十二日付書簡には「隠居の後も経譚の外は何人にも面会を断り」云々と、「隠居」したことが過去形で記されている。また九月十六日付大塩波右衛門宛書簡には「先月中、申し上げ候通り隠居仕り、その後先ず恙なく罷り在り」と八月中に「隠居」したこと、その後恙なく過ごしていることを記している。これによって退番と隠居とは同時ではなく、大塩はまず文政十三年八月に隠居して家督を格之助に譲り(このときに連斎と号する)、役所へは九月の中旬に退番届を提出したことが判明するわけである。

(11) 『柳営補任』巻之十九、「大坂町奉行」の項参照。因みに曽根は「天保三辰三月病気ニ付為保養参府」し「同年六月廿八日西丸御留守居」に転じている。今井が「(高井は)西の丸の御留守居になりました」とするのは曽根と混同しているのかも知れない。
(12) (13)大阪市立博物館蔵。
(14) 石崎東国「洗心洞尺牘集」所収。
(15) (16)大阪市立博物館蔵。
(17) 大塩が大塩波右衛門に宛てた十月八日付書簡(大塩明人所蔵の釈文による)に「廿八日出立」とある。
(18) 同上書簡に「漸昨七日夜佐屋より御当地へ着」とある。
(19) 大塩波右衛門・岩吉宛十月十五日付書簡(大塩明人氏蔵)に「昨十四日暮後帰宅(中略)いまだ尊館ニ滞留之よしニ世上申成し」とある。
(20) 大塩明人氏蔵。
(21) 大塩格之助が大塩波右衛門に宛てた十月二十三日付書簡(大塩明人氏蔵)に「同苗(注、大塩を指す)儀尊館ニ而滞留之積りニて内々帰着仕、猶又一昨廿一日当表出立し」とある。
(22) 大塩が坂本鉉之助に宛てた十一月十六日付書簡(大阪市立博物館蔵)「当月二日に帰坂仕候」とある。
(23) 同上。
(24) 同上書簡に「今十六日より出宅、山へ参申候」とある。
(25) いずれも大阪市立博物館蔵。
(26) 秋吉雲桂宛書簡に、「僕義退隠後、猶俗塵纏繞、超避之ため芳山辺、又者処々之江山経歴、武尾ニ挟旬程ツゝ寄寓、稍々秋末杖履取置、弊廬窗底ニ偃蹇」と行き先を記す。
(27) 石崎東国『大塩平八郎伝』天保四年条には富士山石室への『洗心洞箚記』奉納のため「門人湯川用誉、窪田玄政及ヒ家僮等ヲ携テ七月十日大阪ヲ発シ駿河ニ之ク」としているが、その根拠を示していない。湯川の入塾は天保五年であるからこの行に参加している筈がなく、富嶽図に付した漢詩の詞書に「富士絶頂而賦此詩以与白井尚賢、尚賢従游之生一人也」とあることから白井(尚賢)孝右衛門の同行が確認されるように、同行者の特定には不確定な要素があり、窪田を同行したという石崎の記事は検討する必要がある。


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〔今井克復談話〕
石崎東国「大塩平八郎伝」その59


「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について」目次その2その4

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