Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.20訂正
2001.11.14

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大塩の乱関係論文集目次


「「猪飼野探訪」案内記」

附 釈淨円墓碑破却の顛末

足代 健二郎

大塩研究 第44号』2001.9 より


禁転載


 六月三日(日)、午後一二時三○分、出発時間にはJR鶴橋駅構内は参加者で溢れるばかりだった。主催者の挨拶のあと、早々に駅の裏側の自転車置場に移動。

 そこは丁度、猫間川の川跡である猫間川筋という道路がL字型に屈折した曲がり角に位置している。そこが当日のコースの出発点である。(以下本稿では、大塩事件や木村家関連事項以外は順路のポイントのみを記し、説明は省略することにした。)

@猫間川跡と、昭和初期の旅館建物
A伝・木村司馬之助ゆかりの道標

      (生野区鶴橋一丁目一○付近)

 細工谷より東行して来た桑津街道が猫間川を渡る所(現在、襲学校角の信号)から少し東に進むと、細い道との分岐点があり、そこにこの道標が建っている。
 高さ約一・五メートル、太さ約二十八センチ角で上部は低い山形になっている。

 この道標は、昭和四八年二月一○日付読売新聞〈「猪飼野」消えて…〉という記事によって一躍、注目されるようになった。サブタイトルは「埋もれる〃歴史の証人〃/折口信夫の足跡/大塩平八郎の乱」となっている。その年の二月一日に猪飼野という地名が廃止されたことに因んでの記事で、主人公は折口門下の中村浩氏である。

 また『大塩研究』第三号(昭和五二年三月刊)で米谷修氏は、

と述べられている。

 だが、この推定には疑問がないわけではない。実は、昭和五六年五月、この道標が車に当てられて押し倒されるという事故が起こった。その結果、今まで土中に埋もれていた道標下部の文字が明らかになり、これの建立者が寅待講という信貴山の信者の講であることがはっきりした。(事故以前に判読されていた文字は、大阪市立博物館研究紀要第三冊「大阪府下の道標(1)p31・昭和四六年三月刊に掲載されている)

 この一件については、『郷土誌いくの』第七号(昭(和五九年六月刊)掲載の「鶴橋雑記・鶴橋付近の道しるべ(一)」と題する東浜弘静氏の論考・写真が非常に参考になる。

 ただ、この中で氏は、拓本によって文政口戌年(註、文政九=一八二六年)一○月建立の文字が判明、天保二年の墓碑より五年も以前である。従ってこの道標の浄円と墓碑の浄円とは無関係であると主張されている。東浜氏は私が尊敬する郷土史家である。しかし、この結論については、拓本の判読に少し無理が感じられるので、私としては判断を保留したいと思う。少なくとも、道標の被供養者である浄円なる人物が、ただの人ではないという点にもう少し注意が払われるべきではなかろうか。米谷説に加えて、天保元年(=文政十三年寅年。お蔭参り流行の年でもあった。墓碑建立が数ケ月間遅れたと考える)建立説があってもよさそうに思えるのだが――。

B木野村(このむら)・長谷川邸(司馬遼太郎の大阪外語時代の師、信好氏の屋敷。故人)・庄屋飯田邸
C弥栄神社(木野村の氏神。古名・牛頭天王宮)

 東側参道に一対((1)(2))の石灯籠があり、次の文字が刻まれている。

D御幸森(みゆきのもり)天神宮 (猪飼野村の氏神。古名、天王天神社または御幸宮(ごこうのみや)、天神宮)

 弥栄神社と御幸森天神宮とは指呼の間にある。しかし、本来、この両社の間には平野川が横たわっていて、そこに橋はなく、木野・猪飼野の二つの村の連絡路はこれよりずっと南方の鶴の橋しかなかった。幸い現在は直通である。

 疎開道路(豊里・矢田線)の信号を渡ると、すぐ天神宮の社頭にたどりつく。正面鳥居の前に、疎開道路と平行して南北に走る細道がある。これを宮前通りというが、これは昔の平野川右岸堤防のなごりである。(これに対し、弥栄神社前の鶴橋本通りは左岸の堤道で、江戸期には平野街道、明治の一時期は中高野街道、大正期は鶴橋街道といった。)

 天神宮は仁徳天皇・少彦名(すくなひこな)命・押坂彦命の三柱を祀る。仁徳天皇が鷹狩りなどのために、しばしばこの地に行幸されたので、のちに天皇の神霊を奉祀して御幸宮と称したのが当社の起こりとされている。

   【写真 第17代木村権右衛門奉納の標柱 (略)】

境内の標柱に、(括弧内=裏面)

そのすぐ傍らの石灯籠一対(左右同形同文)に、

 この人は、大塩事件当時の木村本家の当主だろうか?。

 また本殿東側玉垣内に、弥栄神社と同形同文の石灯籠一対がある(東小橋の比売許曽神社も同様)。玉垣に「木村銀行」の文字、その他ほかにも沢山あるが、あとは省略しておく。

 境内の東の端に遥拝所があり、石組みの基壇の上に大きな自然石(伝・仁徳天皇腰掛石)が据えられている。その基壇の側面に、大正三年九月にこれを奉納した〃宮座中(みやざじゅう)〃の二十一人の氏名が刻まれており、木村姓が十七軒、島田・沢田・村川・高野姓が各一軒となっている。宮座の組織は悪くいえば極めて因襲的なもので、村の草分けの旧家のみによって構成され、それ以外の村人の加入を許さなかった。

 木村権右衛門家は一時期庄屋まで勤めているにもかかわらず、これで見る限り宮座の一員には入っていない。

 当家は家伝によれば、木村重成の姉婿・猪飼左馬之助の息、木村権右衛門重則(幼名・左馬次郎)を家祖としている。また私は以前、土地の古老から「権右衛門さんの先祖は他所から来た人や」という話を聞いた記憶があり、この家が宮座の一員でないのは、その辺に理由がありそうな気がする。

 余談になるが、実は、木村重成が出陣を前にして姉婿の猪飼左馬之助に宛てて書いた書状の写しなるものが、諸所に伝わっている。この書状の真実性については疑問視する意見が強いが(註1)、猪飼左馬之助の実在性とそれとはまた別個の問題である。

「漫遊人国記」角田勤一郎著・大正二年刊に、〃猪飼野左馬助の名は大阪落城の然るべき史伝には見えざれど、重成と縁故ある此人ありしは事実ならんか、(中略)難波戦記に、重成と共に若江にて戦死せし山口左馬助弘定を重成の妹婿なりと記す、其他の諸書に見るに大阪落城の際在城せしもの重成の甥木村左京あり、叔父に木村主計宗明あり、また木 村豊前守重宗あり、重成の一族は頗る多かりしと見ゆ。〃と述べている。

 しかも木村家の旦那寺である安泉寺住職猪甘家の過去帳に、偶然、左馬之助の名が記されていた。

とあり、去亥年の年代ははっきりしないが、その前後に享保・寛政・文化・文政等の没年号が散見される。従ってこの人は重成の姉婿その人ではなく、何代目かの子孫かと思われる。けれどもこの過去帳の記述によって、重成の姉婿・猪飼(または猪飼野)左馬之助の実在性は、かなり確かなものになった、と言えると思う。

   【史料 猪甘家過去帳(部分) (略)】

E安泉寺 桃谷三−一六−二六

 山号は鶴栖山。浄土真宗大谷派に属し、猪飼野村古来の寺院で村の旧家は概ねこの寺の檀家となっている。天神宮が村の氏神であるのに対して、村の氏寺であったと表現しても大過ないであろう。

 創建年代は不詳であるが、釈教寛初代住職から数えて現住・猪甘俊教師が第十五世となるので、江戸初期のことかとされている。

 当寺は集落の中央西よりに位置し、寺の南側の道が小字名「北ノ町(きたんじょ)」「南ノ町(みなんじょ)」の境界となっており、 東ノ町(ひがっしょ)・巽などという集落内の俗称も寺を中心とし ての方位を示している。

 旧本堂はわら葺きで南面していたが、大正十四年(一九二五)に全面的に改築し、西面・本瓦葺きとなった。その際太鼓楼を廃して、現在の竜宮城を思わせる立派な鐘楼門に変えられた。この門は第十八代木村権右衛門(喬)氏の一建立(いつこんりゅう)(独力で寄進)に よるものである。大晦日の夜には参拝者は鐘楼門の上の除夜の鐘をつかせて頂ける。

   【写真 第18代木村権右衛門寄進の安泉寺鐘楼門 (略)】

F猪飼野保存会館前、平野街道の道標

Gつるのはし跡 桃谷三−一七

 猪飼野保存会館前の丁字路を西へ七○メートル、北側にある。

 実は、この小公園は旧平野川の流路に当たり、その前の東西の道路(平野街道)面が橋板に相当するのである。

 このつるのはしは、日本最古の橋として名高い「猪甘津(いかいつ)の橋」の跡といわれている。

 『日本書紀』に仁徳天皇の十四年冬、十一月「猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋(おばし)という」と記されていて、これが我が国での架橋の記録として最も古いものである。

 平成九年四月、大阪市で最初の史跡公園として整備され、その際、長谷川貞信筆「なにわ百景の内〃飯飼野(いかいの)鶴のはし〃」や荻田昭次氏蔵「平野川・大和川絵図」の陶板画などが設置された。

H木村権右衛門邸跡

 この邸跡は南ノ町の南端にあり、平野街道が東へ折れ曲がる角に位置しており、現在は木村モータープールとなっている。

 この屋敷については、江戸後期の戯作者・太田南畝(蜀山人)の大阪見物記『葦の若葉』(享和元年・一八○一年刊)に、

と記されていて、今から二○○年ほど昔、すでに相当な富豪であったことを物語っている。猪飼野村の庄屋は、木村藤兵衛という家が主に代々勤めていたが、ちょうどこの時期辺り、権右衛門が藤兵衛とならんで、あるいはこれに代わって庄屋の地位についている。

 「橋の向かいに屋根高く…」の文章は、この屋敷の位置と当時の情景をよく表しているようだ。この頃はまだ河原が広々としていたから、鶴之橋の辺りからこの屋敷の全景がよく見渡せたことだろう。

 さて、木村モータープールの東半分はかなり昔から屋根付きの駐車場となっていたが、西半分はつい近年まで、土塀に囲まれた母屋や茶室、庭園などが残され、木村商事株式会社の社員寮(「長門寮」)となっていた。現在はそれが青空駐車場に変わっているが、その東側の隅にフェンスで囲われた一画があって、そこにどっしりとした一株の椎の巨木が繁り、石灯籠と庭石が配置されている。

   【写真 木村権右衛門邸内神木 (略)】

 当家は大坂夏の陣で討死をした木村長門守重成の 姉婿である「猪飼野左馬助(さまのすけ)」の子孫と伝えられ、しめ縄の掛けられたこの神木は樹齢四○○年、重成公 のお手植えと聞かされた。

 木村権右衛門という人の名前は、〃鬼権〃の異名と、「生駒の山すそまで他人の土地を踏まずに歩いて行ける」という伝説とによって広く鳴り響いている。

 天神宮境内の標柱(しめばしら)の裏面に、

と刻まれているのがその人で、嘉永二年(一八四九)に生まれ、大正三年十月十五日に没した。葬儀の際には、屋敷から六○○メートル離れた〃葭(よし)の墓〃まで、道筋に三尺(約九○センチ)毎に青竹を立て並べてそれにローソクを点(つ)け、その道を野辺送りの行列が通ったという。

 明治十三年から同二十八年までの十五年間、大阪府会議員をつとめ、同三十一年、木村銀行を設立。当家は代々豪農であったが、この人の代に至って資産が数倍し、ついに大阪府下屈指の富豪となって明治二十三年五月以来大阪府多額納税者となった(『大阪現代人名辞書』)。安泉寺の項で紹介した第十八代木村権右衛門(喬、源尚敏)はこの人の長子である。(この項は「猪飼野郷土誌」拙稿p53より転載)

I木村司馬之輔建立の墓碑

 猪飼野保存会館での講演会のあと、オプションとして、鶴橋斎場(中川西一−一八)内の無縁墓地にある司馬之輔ゆかりの墓碑を見学。(猪飼野保存会館→コリアロ一ド・コリアタウン→猪飼野新橋→)

 この無縁墓地は、猪飼野新橋の東方約二○○メートル、斎場の西南の隅にあり、難波・片江線道路沿いの歩道に面した裏木戸より入る。

 無縁塔の最下段、東北隅から南へ二つ目がその墓碑である。

 『東成郡誌』(大正十一年刊)第七章・人物〈木村司馬之助〉の項に、

 この記述によれば、大正十一年当時、この墓石は無縁ではなかったらしいが(註2)、それではこれが無縁墓地に移されたのは一体いつのことなのか。安泉寺のご住職にも尋ねてみたが、判然としなかった。

 なお、その無縁塔の同じ最下段に木村権右衛門の建てた墓石が二基ある。一基は天明六年(一七八六)いま一基は天保二年(一八三一)のもの。

   【写真 鶴橋斎場墓地、木村司馬之輔建立の墓碑 (略)】

前者は『大塩研究』第四一号「木村司馬之助の一足跡」政野敦子・二000年三月刊p40に記録されている。後者は、左側面に

正面に「釈浄和」など六人の戒名が刻まれたもので浄円墓碑から左回りで二つ目か三つ目位の場所にあった。春・秋と建立の季節は違うが同じ天保二年であることに何か意味がありそうな気もする。

 それはともかく、浄円墓碑の現状は剥落がひどく、今にも壊れそうである。何らかの処置を施すことによって剥落をくいとめることはできるのだろうか。よく分からないが、〃何とかしなければいけない〃というのが、参加者一同の感想だったと思う。

  (あじろ書林店主)


(註1) 岡本良一『木村重成の自筆消息』(「河内文化」第十三号所収・昭和四○年六月刊)、沢田ふじ子『つれづれ草子29』(平成六年七月二四日付「読売新聞」)参照。
 なお「漫遊人国記」には、木村権右衛門氏家蔵の一通のほか、史籍集覧所収・伴信友編〈武辺叢書〉に載せられていると記述。大阪城天守閣にも、寄託品を含め三通が所蔵されている由。筆者は、信州上田市在住・高野康子氏所蔵のもののコピーを所持している。

(註2) この斎場は大正四年、当時東成郡鶴橋町の区域内にあった四ケ所の墓地を統合して、新たに現在の場所に創設されたものである。そのうちの一つ、猪飼野・木野両村の共同墓地であった通称〃葭の墓〃は、鶴の橋から西へ四五○メートル、桃谷本通から脇道を少し入った所にあった。『東成郡誌』の記述は、墓地統合以後の事実を述べたもの(のはず)である。

(註3) 後述のように、これら無縁墓碑が悉く失われた現在、再び実物を見ることができないので、後考のため、この墓碑の正面の文字を一応書き留めておく。


別館 史跡あんない「猪飼野周辺


あじろ書林


附 釈淨円墓碑破却の顛末

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