Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.20訂正
2001.11.21

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「「猪飼野探訪」案内記」

附 釈淨円墓碑破却の顛末

足代 健二郎

大塩研究 第44号』2001.9 より


禁転載


附 釈淨円墓碑破却の顛末

 見学会の翌々日の昼頃、私は偶々、鶴橋斎場の南側道路(難波片江線)を車で通りかかった。

 無縁墓地は、その道路の北側に沿ったブロック塀の内にある。その無縁墓地用の裏木戸の少し東寄りの鉄柵状の非常口がその日は開いていた。

 私はこの道路は時々ではあるが永年に亘って通行している。しかし、その非常口が開いた状態は未だかつて見たことがなく、しかも蔓草などがからみついていたような状態なので、単なる鉄柵だと思っていた位である。しかるにその日は、その非常口から道路工事の時によく見掛げる掘削機が入って何か掘り返している様子である。

 急いでその辺りに車を止め、中に入って見ると、ピラミッド状に段々に並んでいた無縁墓碑が、もう殆ど完全に跡形もない。十基ばかりの墓石が転がっているのみである。その中には木村司馬之助ゆかりの「釈浄円」の墓石は見当たらなかった。  工事人に事情を説明して、残りの墓石が今どこにあるのかを尋ねた。それらは既に二台のダンプに積み込まれているという。そのダンプ・トラックは、斎場内の北側の広場に駐車していた。

 そのダンプの荷台によじ登って、懸命に捜したが、よほど下の方に隠れているのか、石と石の隙間を覗いて見ても、どうにもその墓石は見付からなかった。再度、工事の現場に戻って、剥落した石のカケラでもないかと探し回ったが、その文字のものは発見できなかった。

 実はこの斎場は、最近になって、火葬を停止したことを聞いていた。この火葬場廃止問題は、数十年来の懸案であったが、斎場主の死去後、漸く色々な条件が整って解決を見たようである。しかし、墓地移転などの話は全然聞いていなかったので、無縁の部分だけとは言え、今回のことは全く寝耳に水のような出来事であった。

 斎場正面(北側)入口の近くにある仏壇仏具商の浅田さん宅に事情を聞きに行った。この人が、火葬場廃止問題で、大阪市・斎場主・地元住民の三者協議に当たって、地元の代表世話方であることをちょっと耳にしていたからである。

 氏によると、斎場の敷地の大部分は大阪市の土地(もとは鶴橋町有)であるが、南寄りの無縁墓地を含む一角はK氏の私有地である。そこを斎場主が無断で占有していたため、以前から裁判で争っていたが、最近やっとK氏が勝訴し、有縁墓地の分は斎場内の北側(大阪市有地)に移建し、無縁の分は取り壊すことになったのだという。

 それで事情は分かったが、しかしトラックに積み込まれた件(くだん)の墓碑は何とかならないものだろうか。とにかく、区役所の公聴企画係に電話で事情を訴えた。公聴係から市の環境事業局「斎園担当」に連絡が行った。一方、もし墓石をトラックから無事下ろせたとして、今度はそれをどこへ置くか。私の希望としては、猪飼野村のお寺であり、木村家の旦那寺でもある安泉寺さんが最もふさわしい。しかし急なことなので、それをお寺が受け入れてくれるかどうかは定かでない。とにかく安泉寺さんに電話を入れた。そしてそんなことをしているうちに雨が降り出してきた。

 そこへ、区役所から二人、市の斎園担当、市からの連絡で、工事依頼者である地主K氏のご子息、が次々と集まって来られた。安泉寺さんも雨の中、スクーターで駆け付けてくださった。そして工事の請負業者と話し合ったが、ダンプでブチまけるなら一瞬だが、一個一個丁寧に下ろすとなると二時間はかかるし、費用も○万円はかかる。自分らはもうそろそろ帰りに向かう時間が近いから、いっそ投棄場所である淡路島まで来てくれという。時刻は三時に近かった。雨は降る、私は三時に約束の用事があった。また多額の費用をかけて下ろして貰ったとして、目的の、釈浄円の墓碑は無事であろうか。否。もともと剥落寸前のようなあの状態から考えて、到底それは期待できまい。断片を拾う位が関の山であろう。

 判断に迷ったが、これはどうやら諦めざるを得ないと考えて、その場は解散することにした。

 私は、そのあと急いで所用を済ませ再び現場へ戻った。工事人たちは片付けを終えて出発しようとしている。トラックの荷台に登って上から確認できる位置に、以前から見て憶えている切支丹灯籠の竿石が積み込まれており、これには地蔵尊が浮き彫りされている。せめてもの形見として、浄円墓碑の付近にあったこの地蔵尊だけでも残しておくべきではなかろうか。と同時に、その辺りの石を幾つか取り除いたら、運が良ければ、浄円の墓碑がその下から現れるかも知れない。判断をせかされ、思い切って費用を支払い、地蔵尊を下ろして貰った。しかしその真下の石は目的のものではなかった。なおも幾つかの石を取り除いて貰ったが無駄であった。四面とも完全に表皮の剥離した墓石が一つあったが、その付近には剥片も見当たらず何とも判別できなかった。

   【写真 辛うじて地蔵尊を救出 H13.6.5 (略)】

 客観的に見れば、切支丹灯籠の地蔵尊と、浄円の墓とは何の関係もないのかも知れない。

 しかし、私がもっと積極的に情報を収集していれば、未然に防げたかも知れない今回の浄円墓碑の破却、私にとっては、その痛恨の記念碑である。

 浄円の墓碑は、私の知る時間内だけでも、少なくとも三十年近くの歳月、何事もなくその場所にあったのだ。今となっては、これは余りにも呆気ない結末となってしまった。

次の週の日曜日、大塩事件研究会から、酒井一先生、井形正寿氏、政野敦子さん・それから司馬之助の子孫で東大阪市在住の西村みつ子さんの四人の方々が無縁墓地の現場に参集された。その跡地には、この前とは別の墓石や石の廃材などが雑然と散乱していた。一同の方々は、浄円墓碑のかけらでも無いかと捜されたが、もちろんそこからは何も発見されなかった。

 六月三日の見学会が最後のお別れになってしまったが、しかし考えてみると、当初六月十日の予定だったのを誰かの都合で一週間早めたのがせめてもの幸いだった―などと話し合われていた。その当日、この現場で参加者全員での写真を写しておかなかったことが悔やまれたので、この日は廃墟をバックにして一同で記念写真を撮影した。

 そのあと拙宅で少時懇談してその日の会合を終えた。

    (あじろ書林店主)


別館 史跡あんない「猪飼野周辺


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