この日は君公伝通院へならせ玉ふにぞ、登殿するにも及ばされ共、昨
日今日、両日出仕せでは、公事いと弁しかたきこともあらんと登殿、
午後退出、申時ごろ迄閑居せしに、中奥坊主宗悦あわたゝしく来りて、
君のめし玉ふなり、はや/\台御畑へ罷り出られよと、小姓頭取取申
越せり、 君にはいま台御庭に待れ玉ふといふにぞ畏りぬるよし申、
ワラグツ
いそかはしく服をあらため、御庭のことなれば、草履をはき、御庭の
御門外にて小僕に刀をわたし、小刀のみにて門に入て見るに、君には
近臣四五人めしつれられ、いやしき者共がはたかへすを御覧せられ玉
ひけるが、彪がはせ参るを見玉ひて、近臣を遠け。小高き丘にのぼら
せらるるにぞ、彪は其丘の下へ跪きて平伏せり、これへ/\との御意
に恐多くも丘に登り、御身近くさむらへは、汝をよぶこと他事にあら
ず、時ならぬ冷さといひ、毎日空かくくもりあるは、雨ふり出し、南
北風打交り、雲のゆきかふけしき、いとおそろしく覚えたり、去年の
凶荒にて、天下万民飢になやめるをり、またことしも、五穀みのらず
んば、天下の民いかばかりくるしまむと思へば、心せちになりて、安
んじかたし、公辺にても、いかに救荒撫民の政あるべきとおもひの外、
奢侈の風、日々に甚しく、しかも来る四月初めには、両丸御移がへの
式を行ひ玉ひ、また九月には将軍宣下あるべきよし、天下諸侯、幾巨
万の財用をか費さん、我かつてこれをうれへ、去年九月の日、登営の
をり、老中共をよびて、凶荒のとし、大礼を行はせらるゝはいかゞあ
らむと論じたるに、老中共何のいらへもなしえざりしが、其後家老中
山備前に伝へて、営中にてこの後唐突に議論なんどせまじきに心得よ
といひおこせたり、我以の外気色を損じたれども、かゝる老中共へい
か程存意をのべたりともせんなきことゝ、今日迄は黙々せしが、この
ころの気候といひ、また浪華騒擾のこと抔思へば、片時も黙止かたし、
よつて明日不時に登城して老中ともを不残よび、十分に国家のことを
論じ、倹素に返し、中興一新の説をのへんと思ふはいかゝとの 仰承
り、彪は、元より左もあらまほしく思ひければ、いかにも 仰の如く
ぞんずる旨申上置んとおもへども、君の英明、幕府にては兼て忌憚る
人もなきにあらず、なましゐに御建議なし玉ひても、其事行はれざる
のみならず、君の御身上にさはらせ玉ふ事にも成行ば、容易ならずと
思ひ返し、時勢人情なんど彼是と申上たるに、君にもたやすからず思
召けれども、知ていはざるは不忠と思ひ、かくはおもふなり、されば
明日に我が登城せんといはゞ、役人共申留むるならん、たとひ役人ど
もとゝめもせずして登城せしとても、幕府の政府、わが議をうけづし
*
ては申述る詮なし、さて汝が兼而懇に交り深き川路三左衛門は幕府の
吏にて事情にも通ぜる人と聞及びたり、いそぎ行て窃に語り試よとの
仰畏り奉り、御前をたちて退きしに、公手つからつませ給へる落草を
玉はりければ、おし戴き、もとの道より立出て舎に返り、とるものも
とりあえず、川路にゆきて、ことのよしをつげかたらひけるに、川路
掌を拍て、 君公国家の為に思召の厚きに感じ奉り、しばし黙して考
へ、さて 相公の憂慮し玉へるは誠に難有御事なり、されど昔の世と
はことかわり、今は三家の君、不時の登営し玉ふこともなければ、
君俄かに登営し玉はゝ、其御志の深切なるはいはずして、いとあら/\
*
しき御振舞と申さんもはかるべからず、また大久保加州、世にありし
日は、正しき道も聊か取用らるゝ勢ありしが、加州身まかりし後は、
有志の説も行はれず、 相公の御説は、国家の大議にしあれば、加州
いませしとても、容易に行ひがたかるべし、況んや加州既に黄泉の客
となりては兎角の論にも及ふまじ、某は司農の一吏なれば、政府の事
情はしらざれ共、某へはからせ玉ふとあらば、よろしきとは御請申さ
*
れずとて、彼是談話ありれるが、兎に角奢侈壅蔽の俗、日々甚しく、
川路も心中にいとくるしくと思へるさまにて見えけり、まかり帰りて、
川路の説しか/\と申上けるに、公もさこそあらめとて御登営の事、
思し止め玉ひけれども、ます/\憂苦なし玉ひけるこそかしこしと、
申も恐れ多くとおほえける、
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この日、大阪
では、大塩平
八郎父子が自
殺している
川路聖謨。
かわじとしあ
きら、
1801〜1868
幕臣、通称三
左衛門、
当時は勘定吟
味役
大久保加賀守
忠真。老中、
天保八年三月
十九日没
壅蔽。
ようへい、
ふさぎおおう
こと
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