君上去る一六日より、昨十五日まで御忌中にてあらせられ 讃州侯
御住居久姫君御卒去によりてなり、今日御忌明に付、御礼 御尋上使
として登ありけるゆゑ、出仕を免され、終日家居、論語を草す、
○申時信州上田の士 用人 山田司馬之介来り訪ふ、山田は其藩の老儒
に而、朱子学をこのみ、また神道を明むるの志あるよし、先年其門人
上野昇太郎、大島邦之丞より承り居しに、近頃新に用人に転し出府し
たるとて、今日大島と共に来れり、齢六十三歳、醇々たる老儒にして
少しく気概もある人なりき、
○軽部平太左衛門来る、
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○野州の画工靄涯 文平と称す と云ふ訪ひ来りて、余にあはむことを
こふ、何ゆゑにやと僕をもてとひしに、鈴木八平の頼みにて来れりと
いふ、よつて一見せり、靄涯曰く、七年前、八平の父鈴木松亭物故せ
しが、未だ墓碑を建ざるゆゑ、今年五月の頃までに碑文を撰み玉へと、
二三年以前、庄司健斎に託して君に乞ひたるが、其文いまた撰みえざ
るや承りて参るべきよし、八平より託せられたりといふ、健斎は三四
年音信も通ぜざれば、余はかつて作文のことを託せられしことを知ら
ず、たとひ健斎を以て託せられたりとも、不敏の某、うけがたしと答
*
るに、靄涯が曰、松亭の父石橋の碑文は、君の先君子撰み玉へり、其
子の碑にしあれば、君に託せるなり、されど、未だ八平より託したる
こと、君のしり玉はぬ社いぶかしけれ、健斎子いかにして君に通せざ
るにや、早くこのこと八平にしらせ、八平より託し奉るにてあるべし
とて去ぬ、
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高久靄
たかく
あいがい
1796〜1843
文人画家、
平出雪耕らに
絵を学ぶ、
渡辺崋山等交
友は広い、
鈴木石橋。
1754‐1815
鹿沼の儒者、
私塾麗澤之舎
を開く、
蒲生君平は
その門弟
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