Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.17訂正
2000.7.1
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 事 件 と そ の 影 響」
その5
有働 賢造 (1907〜1945)
『江戸時代と大阪』 大阪宝文館 1943 所収
◇禁転載◇
五
大塩事件の勃発は、蓋し幕府の最も驚愕したところであつたに相違ない。乱後の物価騰貴は直接江戸にも影響し、江戸の人気をも険悪なものとしたが、これに加えて大阪からの誇大な報知が江戸の人心を騒然たらしめた。川路聖謨の「遊芸園隨筆」に、
二月二十四日、林大学頭方に参りとひ計ることのありて、夕かた迄居たりしに、大学頭申せしは、大阪町与力の隠居大塩平八郎謀叛いたせし由、彼地の町奉行跡部山城守よりして、内々御勘定奉行矢部駿河守方へ申参りたり。是は山城守同心平山助次郎儀、平八郎巧候趣、山城守え同十七日申聞候に付、同人も覚悟いたし、其段駿河守之申越候旨にて、同人より大学頭え物語候由也。平八郎は王陽明派の学者にて、謀叛の念などあるべくもおもはれず。よしあればとて狂人の事故、何程の事かあろべきなど申候て其日は帰りぬ。同廿六日登城せしに、同日御城へ大阪よりの飛脚到来いたし、大塩平八郎宅より出火いたし、大筒火矢等を以て焼立候に付、取鎭方夫々手配有之候旨申参り候由にて、御老中方も退出、七ツ半時過に相成、其節駿河守物語に、早大阪は落城し、堀伊賀守は京都へ逃参り、跡部山城守は百目筒に当り首微塵に砕候由、事々敷物語大造の事に候得共、其存ぜしは平八郎者浪人ものにて、其上白昼に自焼いたし取懸候にて、最早大事之難成は明也。当時昇平之御時故、人武事不鍛練大造に申立候事不足信候間、恐懼之御取計有之、国体に拘候ては以之外之由等、内々水野越前守殿へ申せし旨ありしに、彼人も心附も候はゞ必可申上旨等、具に被 仰聞たり。是は文化のはじめ魯西亜の賊船カラフトにて乱妨の節、今にも東海より上陸いたし陸奥迄切取候様に、都下のものは申せし故、実に至て纔の事にて、彼平家の人々鳥の羽音に驚きたるためしもあれば、決して治世肉食の人のみだりなること申せしを受可からざること也。内々決し居人々の驚きたる様取沙汰之様子等笑ひおもひしに、果て其後の注進にて二十人余りのもの共騒立、飢民共大勢引連出候得共、跡部山城守に出合、忽に敗亡せしよし分り候也。*24
と記されてゐるのにも江戸の驚愕の一端は示されてゐる。松代の真田侯が水戸烈公に語つたといふその頃の話に、松代侯へ出入する江戸の旗本の中で、今度大阪に一揆があつたに就いては、往々どんな騒ぎになるやも計り知れないから甲冑の支度をして置かなければ困るがその用意がない。就いては貴藩より是非拝借が願ひ度いといふ依願があつた。藩侯はよつて甲胃一領を遣はされた。而も旗本の体面を汚さないようにと極く内々に遣はしたところが、その旗本は一向にこれを恥辱とも思はぬばかりか、同僚にも吹聴したので、それを聞いた他の旗本は我も々々と真田屋敷に詰めかけて甲冑貰受けを談し込み、果ては縁もゆかりもない者まで頼み込む始末に、真田も遂にあきれ果て、一切その依願を拒絶したといふことであるが、この一挿話にも江戸動揺の状況は察知せらるるものがある。動揺は幕臣の堕弱によつてより多く喧騒を加へてゐるが、天保の乱が一揆・打毀し等と異つた心理的影響を彼等に与へたことに有力な原因を見出さなければならない。江川太郎左衞門が剣客斎藤弥九郎を大阪に派して、平八郎の踪跡探査に当らしめたのも這間の事情を窺はしむるものである。江川が弥九郎を遣はしたのは、平八郎が万一海上へ乗出し、大島・八丈島等に隠れ籠つたならば容易ならざる一大事と考へたのによる。弥九郎は大阪に於て与力本多為介に会ひ、乱の実相を聴取して東帰し、これを江川に報告した。藤田東湖の「浪華騒擾記事」は実に弥九郎の談話に基き東湖が手録してなつたものであり、彼の並々ならぬ関心を示すものである。東湖の記事は直に烈公に呈覧せられた。この際烈公並に水戸の人々が天保の乱を如何に真剣に考へたかは、東湖の「丁酉日録」その他の著述によつて充分にこれを明白にすることができる。「丁酉日録」三月廿日條に、
去年以来世上不穏によつて我等手元に而甲冑数十領買得たり、此節は大阪騒動に而武具の価俄に引上たるよし、されば又これをば暫く見合せ、このせつ塩硝並鉛を買入るゝ心得なり。*25
とあるは、天保の乱が与へた影響の微妙さを思はしむるもの、「丁酉二月廿七日封事」に東湖が、甲冑買入れ方の儀に関し、
大阪一件に付而は甲冑値段引上げ可申候間、取沙汰広く不相成以前承聒候様伊藤十郎左衛門へ御意被為在候旨過刻御内話被為在候処、只今得と思慮仕候へは、過刻御意之通り、大阪表程之騒動に御座候はゝ、甲冑之儀も麁物にても実用向き之品は値段引上げ可申、何程名器にても信家以前の品抔は直値引下け可申奉存候、左候へは前書十郎左衛門等へ被仰付候儀も実用向にて持物等多分御買入被遊候方歟と愚慮仕候、全く御手元之御事に而何等申上候筋には無御座候へ共、過刻御内慮をも奉承知候事ゆへ任心付申上候。*26
と述べたのも、乱後の事情が彼をしていはしめたものである。烈公はこれに親披して、『尤に存候、申付候処堅き品を申付候儀にて古物には無之候』と記してゐる。「丁酉日録」三月廿一日條には、天保の乱に驚愕した烈公が天機奉伺を発念した次第を書き、斉昭から東湖に宛てた親書を拝した旨を記して、
親書の大意は、過日の大阪騒擾京師へも程近ことにて不容易ことなり、幕府への御嫌疑だになからばかしこくも御使を以、主上の御機嫌御伺ひ被遊度思召候得共御嫌疑もあることなれば、京都へさしをかれ候御留守居役を以て御機嫌御伺ひ被遊候而は如何あるべきや、虎之介等へ相談の上執政へ談候へとの御事也。*27
と書かれてゐる。東湖は烈公の命により関白への御書の文案を起草してこれを呈覧したが、このことは遂に実現を見るに至らなかつた。天保の乱が奈辺にまでその波紋を及ぼしたかがここに見られる。烈公は天保の乱を極めて重視した一人であつた。「丁酉日録」三月廿七日條の記事はそれを示してゐる。
この日は君公伝通院へならせ玉ふにぞ登殿するにも及ばされ共、昨日今日両日出仕せでは公事いと弁しかたきこともあらんと登殿、午後退出申時ごろ迄閑居せしに、中奥坊主宗悦あわたゞしく来りて君のめし玉ふなり、はやく台御畑へ罷り出られよと小姓頭取申越せり、君はいま台御庭に待せ玉ふといふにぞ畏りぬるよし申、いそがしく服をあらため御庭のことなれば草履をはき、御庭の御門外にて小僕に刀をわたし小刀のみにて門に入て見るに、君には近臣四五人めしつれられいやしき者共がはたかへすを御覧せられ玉ひけるが、彪がはせ参るを見玉ひて近臣を遠け小高き丘にのぼらせらるゝにぞ、彪は其丘の下へ脆きて平伏せり、これへこれへとの御意に恐多くも丘に登り御身近くさむらへば、汝をよぶこと他事にあらず、時ならぬ冷さといひ毎日空かきくもりあるは雨ふり出し南北風打交り雲のゆきかふけしきいとおそろしく覚えたり、去年の凶荒にて天下万民飢になやめるをり、またことしも五穀みのらずんば天下の民いかばかりくるしまむと思へば、心せちになりて安んじがたし、公辺にてもいにも救荒撫民の政あるべきとおもひの外奢侈の風日々に甚しく、しかも来る四月初めには両丸御移がへの式を行ひ玉ひまた九月には将軍宣下あるべきよし、天下諸侯幾巨万の財用をか費さむ、我かつてこれをうれへ、去年九月十五日の登営のをり老中共をよびて凶荒のとし大礼を行はせらるゝはいかゞあらむと論じたるに老中共何のいらへもなしえざりしが、其後家老中山備前に伝へて営中にてこの後唐突に議論なんどせまじきと心得よといひおこせたり、我以の外気色を損じたれどもかゝる老中共へいか程存意をのべたりともせんなきことゝ今日迄は黙々せしがこのころの気候といひ、また浪華騒擾のこと抔を思へば片時も黙止しがたし、よって明日不時に登城して老中どもを不残よび十分に国家のことを論じ、倹素に返し中興一新の説をのべむと思ふはいかゞとの仰承り云々。*28
大塩事件は政治家としての烈公に激しい衝撃を与へ、時弊匡救への逞しい意欲を燃立たしめてゐる。又「丁酉日録」四月十九日條には、佐々木三蔵なるものが大阪騒動のことに就いて烈公に上書し、烈公は東湖に命じて三蔵を取調べさせたことが記されてゐる。上書の内容は詳かでないが、乱を契機として時勢を憂ふるの言を開陳したものであつたらう。天保の乱は人々の心に時代に対する痛烈な反省を促したのであつた。それは決して一大阪の限られた問題として終るべきではなく、又終ることはできなかつた。社会の各階層に夫々の環境に応じて強い感銘を与へたのであつた。風声鶴唳にも政治の得失を想ふことは東洋的な政治の道である。斯かる理念に立脚した江戸時代の政治家が乱に処して如何に反省したかは、これを大にして烈公、小にして三蔵の場合にその最もよき事例を見ることができる。天保九年以降水野越前守によつて断行され最も激烈な改革を標榜した天保の改革も、対内的には天保の乱によつて明白に指摘された社会的欠陥の除正を目指したものであり、乱が政冶に与へた影響は茲に明白に指示される。嘉永四・五年の交、川路聖護が大阪東奉行として在阪の折、坂本鉉之助が天保の乱に小銃を手にして出陣し、沈着よくその任を尽くしたことを賞し、屡々当時の談話を乞うたといふことも、決して史的興味からなされたのではなく、政治との関聨に於て特に注意されたものと見なければならぬ。天保九年閏四月、幕府が玉造繁昌のためと称し、猫間川・道頓堀川間開鑿を企てたのも、その真実は天保の乱に天神橋を切落し大塩軍の大阪城攻撃を阻んだのに鑑み、これを以て南方防守に宛てんとするにあつたといふのも乱が与へた政治への直接影響としなければならぬ。
乱後幕府は、湯屋・髪結所等人の群る場所には張札を張り、善悪によらず世上の取沙汰を申さざるやう、又平八郎のことなど少しも噂せざるやうとの警告を発して箝口令を布き、事実を隠蔽して治安維持に資し、世人の関心を薄くし以て影響の波及を防止することに腐心した。併しながら、幕府の苦心にも拘はらず、奇を好む人の情は抑止し難く、乱は水の低きに就くが如く人々の間に語り伝へられ、心なき人々の胸にも深い影響を与へて行つたのである。乱後幾多の諷刺が市内処々方々に張札されたのも、江戸時代通有のこととはいひながら、世人に与へた影響の致すところに外ならない。乱に関して浮説頻々として起つたのも事件に対する人々の関心が然らしめたのであつた。乱後一年を経た天保九年三月十九日、大阪に於ては、平八郎未だ死せす、昨年油掛町にて死せるは影武者なり、平八郎は加賀に在り、奥州に隠れし抔と言ひ触らし、新しい恐怖を惹き起したのも、或は大塩等が亡念化して飛田の怪虫となるなどの噂のいでたのも、偖は江戸にて平八郎は未だ死ぜすと専ら風聞したのも、平八郎の行動に対する世人の特殊な関心が然らしめたのであつた。乱に関する書物も数多く著はされた。「塩逆述」「大塩平八郎始末之記」「大塩平八郎一件」「乱妨一件」「大塩実録」「天保内乱大塩軍記」「大塩難騒録」「大塩塩逆記」「浪花乱妨」「浪花の寝ざまし」「松吹風」「見聞襍録」「天保浪花噺」「天保浪花乱妨噺」等、種々様々の書物が乱に関して書き認められ、阿ほだら経や大道講釈にも仕組まれて、奇に投じ変を求むる世俗の人情に底深い影響を与へて行ったのである。天保九年四五月の頃には芝居狂言にも脚色され、「其暁汐満干」とか「大湊汐満干」等と外題して上演され、人々の喝采を博している。芝居が上演されたのは中国,九州地方に於てであり、その芝居役者は幕府のために召捕へられ罪せられたが、庶民にとつて平八郎は既に芝居の英雄として観念づけらるるに至っている。天保の乱は幕府の庶幾に反して強く人々の心を捕へて行ったのである。
註
*24 日本随筆大成 巻五 七五八頁〜七五九頁
*25 新訂東湖全集 一二五八頁
*26 同 九四七頁
*27 同 一二五九頁
*28 同 一二六二頁〜一二六三頁
「大塩事件とその影響」目次/その4/その6
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