Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.19

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件」

その1

『東区史 第1巻』
(大阪市東区役所 1942)所収


◇禁転載◇

第七章 幕末の大阪
 第一節 大塩事件

一 檄文と其の内容

檄文の内
容


 天保八年の大塩の乱は、都市の打毀し乃至農村の百姓一揆等とその趣を異にして、寛永の島原の乱、慶安の由井正雪の乱と並んで江戸時代の歴史に波瀾を添へてゐる。此の騒動が何を目的とし理想としたかは、挙兵の直前に摂・河・泉・播一帯に撒布された檄文の内容が最も端的に之を示してゐる。

 
 

四海こんきういたし候ハゝ天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば災害並至と、昔の聖人深く天下後世の人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ、東照神君にも、鰥寡孤独において尤もあはれみを加ふべくは是仁政の基と被仰置候、然るに茲二百四五十年、太平之間に追々上たる人驕奢とておごりを極、大切の政事に携候諸役人とも、賄賂を公に授受とて贈貰いたし、奥向女中之因縁を以道徳仁義をもなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に智術を運し、其領分知行所之百姓共へ過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上へ、右の通無躰の儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ四海の困窮と相成候に付、人々の上を怨ざるものなき様に成行候得共、江戸表より諸国一同右之風儀に落入
天子は足利家以来別而御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨何方へ告愬とてつげ訴ふる方なき様に乱候付、人々之怨気天に通じ、年々地震火災、山も崩水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誡之有がたき御告に候へ共、一向上たる人々心も付ず、猶小人奸者之輩大切の政を執行、只下を悩し金米を取たてる手段斗に打懸り、実以小前百姓共のなんぎを、吾等如きもの、草の陰より常々察し悲候得とも、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥高直に相成、大阪之奉行並諸役人とも万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、
天子御在所の京都へは廻米の世話も不致而已ならず、五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕杯いたし、実に昔葛伯といふ大名、其農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は徳川家御支配のものに相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等之不仁にて、其上勝手我儘之触書等を度々差出し、大阪市中遊民斗を大切に心得候は、前にも申通道徳仁義を不存拙き身故にて、甚以厚ケ間敷不届之至且三都之内大阪之金持共、年来諸大名へかし付候利徳之金銀、并扶持米等を莫大に掠取、未曾有の有福に暮し町人之身を以大名之家老用人格等に被取用、又は自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら畏も不致、餓死の貧人乞食をも敢而不救、其身は膏梁之味とて結構の物を喰ひ、妾宅等へ入込、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此難渋の時節に絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎へ、平常同様に遊楽に耽候は何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人手に握居候政を以て、右のもの共を取締下民を救候義も難出来、日々堂島相場ばかりをいじり事いたし、実に禄盗にて決而天道聖人之御心に難叶御赦しなき事に候、蟄居の我等最早堪忍難成、湯武之勢孔孟之徳はなけれ共、無拠天下のためと存、血族の禍をおかし、此度有志のものと申合、下民を悩し苦メ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の丁人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に隠置候俵米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播の内、田畑所持不致もの、たとひ所持いたし候共、父母妻子家内之養方難出来程の難渋之者へは、右金米等取らせ遣候間、いつにても大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭一刻も早く大阪へ向駈可参候面々へ右米金を分け遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民へ被与候遺意にて、当時之饑饉難義を相救遣し、若又其内器量才力等有之者には夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ申べく候、必一揆蜂起之企とは違ひ、追々年貢諸役に至迄軽くいたし、都而中興
神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素に立戻り四海万民いつ迄も
天恩を難有存、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣し、尭舜天照皇太神之時代に復しがたく共中興の気運に恢復とて立戻り申べく候、此書付村々ヘ一々しらせ度候へ共数多之事に付最宿(寄)之人家多候大村の神殿へ張付置候間、大阪より廻し有之番人どもにしられざる様に心掛、早々村々へ相触可申候、万一番人ども眼付、大阪四ケ所の奸人共へ注進いたし候様子に候はゞ、遠慮なく面々申合番人を不残打殺可申候、若騒動起り候を 承ながら疑惑いたし、駈参不申又は遅参及候はゞ、金持の米金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失ひ申べく候間、跡にて必我等を恨み宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候、尤是迄地頭村方にある年貢等にかゝわり候、諸記録帳面類は却(都)て引破焼捨可申候、是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候、乍去此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同心中に天下国家を簒盗いたし候慾念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る処は、湯武漢高祖明太祖民を吊君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ我等之所業終候処を爾等眼を開て看

    但し此書付小前之者へは道場坊主或医師等 より篤と読聞せ可申候、若庄屋年寄眼前の 禍を畏、一己に隠し候はゞ追て急度其罪可行候

奉天命致天討候

 天保八丁酉年月日          某

  摂河泉播村々
   庄屋年寄百姓並小前百姓共へ

 










皇政復古
の理想





明治維新
との内部
的関連

 右の如く檄文は、先づ幕府の秕政によつて四海困窮に陥れる旨を論じ、かゝる一般の窮乏にも拘らず奸吏貧商の不正止まざると痛憤し具体的事実を挙げて之を示し、これ等腐敗分子に天誅をを加ヘ、義を天下に布く為に挙兵の止むなきに至つた所以を述べ、挙兵の上は大阪市中富商の蔵慝する金銀米銭を窮民に散ずべきこととを書き、今度の行動が一己の為に非ざる事を切言してゐる。文中平八郎が『都て中興 神武帝御政道之通、寛仁大度之取扱に致し遣』とか、『天照皇太神之時代に復しがたく共、中興の気運に恢復とて立戻り申すべく候』等と書き、皇政復古の理想を明らかにした事は最も注目すべき点である。勿論それは詳細なる建設的企図に於て示されてゐるものでもなく、また何故に皇政復古すべきであるかの理論の開陳も見られない。「洗心洞剳記」その他の文献も之を欠いてゐる。そこに平八郎の知己頼山陽の影響として是を過少評価する見解も生れるのである。然し乍ら彼が一処士の身を以て、牢固たる幕府政権に抗して堂々皇政復古と呼号したことは、大塩の乱が一揆打毀しとその性質をと異にする点であり、それは更に天保八年より三十年を隔る明治維新と大塩の乱との内部的関連を明示するものである。

 
 


檄文(成正寺蔵)

大塩檄文

石崎東国『大塩平八郎伝』 その108


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