Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.26

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件」

その2

『東区史 第1巻』
(大阪市東区役所 1942)所収


◇禁転載◇

第七章 幕末の大阪
 第一節 大塩事件

二 挙兵迄の大塩平八郎とその苦心




平八郎の
廉潔




陽明学的
態度





農村問題
への関心


  挙兵は唐突として平八郎によつて考へられたものではなかつた。この非常手段によつて救民の目的を貫かんとする迄に、幾多の苦心と努力とが彼によつて払はれて居たのであつた。

 平八郎は幕吏として即ち大阪東奉行所与力として世に起ち、殊に廉潔の声があつた。その強烈な正義感は吏務の間、紀州・岸和田二藩境界問題の裁決、邪教徒豊田貢の検挙、酷吏西組与力弓削新右衛門の逮捕その他の行実に明らかに示されてゐる。小陽明の名に相応しい充実した精神生活は、彼の知見と品格とを益々光あらしめるものであつた。しかも彼の洗心洞裡の生活は決して単なる誦句授講の生活ではなかつた。政治談は彼の殊に好む所でもあつたと伝へられてゐるが、之は学問と行為の統一を学問最高の要請とする陽明学を信奉した彼の当然の発展と見るべきであらう。洗心洞裡の思索は寧ろ彼をして現実に対する深さ関心を持たしめたのであつた。その情熱は天保元年致仕して専ら学究の人となつた後に於ても決して衰へるものではなかつた。けだしこの時代の経世家が斉しく考察の対象とした農村問題が、平八郎によつても如何に注意されたかといふ一事例と見ても明らかならうし、彼の学問生活の実践的意義も亦自ら分明となる。

 

 文政十二年播洲に百姓一揆が勃発し、その巨魁が縛に就かず、遠近大いに相戒しむることのあつた時、平八郎は時事を論じて、時勢の憂ふベく吏の自戎すべきと云ひ、周囲の人々を驚かしたと伝へられてゐる。致仕後五年の天保五年に著す所の「地水録」「救荒十種刪略」の如きは彼の関心の奈辺に存するかを知らしめるものである。然らば所謂天保饑饉の惨状は如何に彼によつて注意されたであらうか。以下少しく之に就いて述べて見よう。

 

天保饑饉
の惨状

 天保七年二月より全国各地方とも洪雨に襲はれ、六七月の交に二尺に達する雹が降り、五穀実らず、暴風打続いて田稲悉く流蕩し、米価は銭百文に付三合乃至二合五勺に暴騰し、忽ちの間に饑饉となつた。奥羽地方は殊に甚だしく、草根木皮はおろか犬猫牛馬の類迄喰ひ尽し、餓死者数千人、『秋の末までは餓とよびて泣き叫ぶ声をきゝしが、のちにはその声も絶えたり』(「天保饑饉物語」と云ふ惨状を呈するに至つた。此の頃平八郎は屡々天文を案じ、深く山林に入らんとするの意すら洩したと云ふが、世相に心穏やかでなかつた彼の態度が窺はれる。同年八月甲州に農民暴動が起つた時には、彼は嗣子格之助並びに門弟に対して砲術を教へ有事に備ふベきを読いてゐる。其処には後年の乱魁としての平八郎ではなく、寧ろかゝるものに対する治者としての彼の姿が見られよう。然るに飢饉が京畿の地に迄波及し、その惨害を眼前に目睹するに及んで、平八郎救世の憂心は彼をかつて次第に劇的過程に導いて行つたのであつた。

 此の年十一月大阪町奉行は米穀の他所積出を制限し、世上の険悪化に鑑み、万一に備ふべき大坂在米の維持を図らんとした。しかも其の裏面には饑饉に乗じて利と食らんとする奸商と大阪の幕吏との結託があつて事態は愈々悲惨の度を加へた。江州の饑饉の為、全く大阪よりの廻米に依存しなければならなかつた京都の窮状は殊に基だしく、京郡並びに近郊に餓死者続出し、五升一斗の米と買はんとして大阪に入り来る者も容赦なく縛せらるゝ有様で、京阪の間は惨憺たる光景となり、天保七・八年の餓死者五万六千人を数えるに至つた。

 

跡部良弼
の暴挙

 かゝる間に幕府は大阪奉行に江戸廻米を命じ、大阪奉行・跡部良弼は命に応じて大阪附近の米を買上げ、之を江戸に致すの暴挙を敢てしたのである。窮状は更にその度と加へねばならなかつた。

 

施行断行
の進言

之を見て平八郎は遂に黙視し得ず、嗣子格之助をして奉行跡部に対し、官庫を開いて窮民に給すべきを献策せしめた。跡郡はその意見を納受したが、容易に実行に移さず、平八郎は再三施米断行と進言したが遂に拒絶するところとなり、希望は空しく潰えなければならなかつた。天保八年に入つて窮状はより深刻となつた。加ふるに悪疫流行し大阪の死者一日に七八十人乃至百人、これに凍死者と加へて旧冬より正月にかけて死者四五千人を出し救民の要は愈々切実を加へた。かゝ周囲の状勢は平八郎をして更に新なる対策へ奮起せしむることゝなつた。即ち天保八年正月彼は自ら鴻池・加島等の富商に議り、彼等の諸大名に対する金融を制限することによつて大阪廻米の増加を促し、以て難民救済の資に宛てんとした。

 

農民救済
法

この方法が富商と大名との反対によつて不可となるや、平八郎は最後の救済方法として鴻池その他の富商より金六万両を借入れ、改めて之と富商に提供し、之に相当する米を農民に払出し八月迄右の救済を続け、農民は一石一匁の利子にて三箇年間にその全郡を償却せんとする方策を案出し、平八郎自ら之が責任者たらんとした。而して鴻池その他富商と歴訪して略々その内諾を得て大いに喜んだが、幕吏の干渉するところとなり此の案も亦画餅に帰し去つたのである。

 

洗心洞義
盟の結成

 救世の義魂に燃えて企てられた一切の方策が世の顧みるところとならなかつた時、平八郎の心中に燃え上つたものは、『血族の禍を犯し』一切の犠性を超越して所志と貫徹せんとする悲壮なる決意であつた。正月八日平八郎を中心として門人三十名の洗心洞義盟は結成され、越えて二月二日平八郎は蔵書五万巻を売つて近郊三十三箇町村を賑はし、同七日に妻子を離別して後顧の憂を断ち、十七日夜檄を四方に飛ばして敢然挙兵の非常手段に訴ふるに至つたのである。

 
 


石崎東国『大塩平八郎伝』 その89
平戸藩士聞書


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