その3
『東区史 第1巻』
(大阪市東区役所 1942)所収
三 事件の経過 | ||
事件の経 過 |
二月十九日朝天満一角の砲煙によつて乱はその火蓋を切つた。此の日は挙兵予定の期日であつたが、之より先き義盟同志中に若干の裏切者を出した為、事は急に発せられたのである。此の日未明大塩邸前に軍を整へた義徒の人々は、事の急に同志の参着せざるもあり、総勢軍夫人足と集めて数十人、着込野袴後鉢巻の武装に浅黄真田の襷を掛けて一党の合印と為し、槍・太刀・鉄砲・大砲・行李・鐘等の武器を携ヘ、先づ火を大塩邸に放ち東照宮建国寺を砲撃して之を炎上せしめ、天満橋筋を北に長柄方面に向ひ、十丁目より左折してゆくゆく町人百姓等の軍に加はる者を集めて其の数三百人位となり、天満天神杜より南に折れて天神橋に出たが、橋は既に幕軍によつて其の南端が破壊されてゐたから西して難波橋に向つた。而も未だ幕軍の進み妨ぐる者もなく、同橋を破壊せんとしてゐた人夫を逐ひ、易々として義軍は北船場に進んだ。 | |
義軍の陣 容 二隊に分 る |
先手に大塩格之助、中陣は平八郎自ら総大将となり、後手は瀬田済之助之と率ゐ三段の陣を構へて堂々旗幟を翻しつゝ北船場に入つた義軍は、北浜二丁目に出で今橋通高麗橋通に群居する鴻池善右衛門・鴻池屋庄兵衛等鴻池の一統、天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛・三井八郎右衛門・岩城升屋等の富家を政撃し、其の蔵する金銀を撤布し、是より分れて二隊となり、一隊は平八郎指揮して高麗橋を渡り、一隊は格之助之を率ゐて今橋を渡り共に島町・骨屋町に出たが、未だ幕軍を見ず、東横堀川の東岸を南下して二隊再ご合し、内平野町の米屋平右衛門宅を焼き、未上刻始めて幕軍との間に戦を交へたのであつた。 | |
堀利堅の 出陣 義徒の敗 退 |
幕軍の義軍に対する準備は甚だしく活 | |
大塩焼の 災禍 消失家屋 |
此の騒によつて市中豪商の多くが襲撃の厄に遭ひ、天満・船場・上町一帯に亙る広汎な地域は兵火に禍され、市民の苦痛を招いたのは誠に遺憾なことであつた。世に『大塩焼』と称し、大阪三大火の一とされてゐる。即ち火は十九日早朝大塩家より発し、東天満一帯を焼亡し、北は長柄に及び、転じて船場に移り、北は大川筋より南は備後町迄、西は中橋筋を限り、東は東横堀を越えて上町に向ひ、南は本町筋迄、北は八軒家東は谷町迄延焼し、現東区の大部分を焼き二十一日夜漸く鎮ま岸たと云ふ。竈数一万三千二百四十七軒、明家千三百六軒、土蔵四百十一箇所、穴蔵百三箇所、納屋三百三十軒、神杜三箇所、寺院三十六箇所、神主屋敷十軒、蔵屋敷五軒、御代官一軒、天満御屋敷百四十二軒、上町御屋敷四軒、以上が記録の示す火災の詳細である。猶富商の火災に会つた者には、鴻池屋善右衛門・同善五郎・同庄兵衛・同篤兵衛・天王寺屋五兵衛・平野屋五兵衛・米屋平右衛門・同喜兵衛・同長兵衛・同伊太郎・天王屋安右衛門・木屋安右衛門・嶋田八郎衛門・山本三次郎・鉄屋庄右衛門・ | |