Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.11.9

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 事 件」

その4

『東区史 第1巻』
(大阪市東区役所 1942)所収


◇禁転載◇

第七章 幕末の大阪
 第一節 大塩事件

 四 事件後の処置

災民の救
助



御救小屋
の設置


 大火は必然的に物価の昂騰と来した。幕府は之を抑制しつゝ、一方罹災民救助の処置を急がねばならなかつた。剰ヘに十日夜より翌日正午にかけて大風雨となり、罹災者の困苦は愈々甚だしく、大手前番場を指して集り来つた人々の呻吟の声は遠く王造口土橋迄閧の声の如く聞えたと伝へられる。幕府は道頓堀芝居小屋を以て罹災者収容所とし、又火災を蒙らなかつた町々に命じて御救小屋を設けしめ、或は官金を頒つて難民に給する等、乱後の賑恤に当つたのである。御救小屋の閉鎖は実に此の年九月二十七日に及んでゐる。

 

平八郎以
下の処刑

 他方幕府は義徒の検挙に着手して人相書を配布し、四方に令して厳探に努めた。かくして瀬田済之助、を始め義徒の捕縛・自首・自殺相踵だにも拘らず、平八郎父子の消息は杏として分らず、流言巷に喧しい中に、三月二十七日幕吏は油掛町美吉屋五郎兵衛宅に潜伏する父子を襲ひ之を自匁せしめたが、此の間の繁張は固より、猶其の後に於ても世上幾多の風評を生じたのであつた。九月十八日平八郎以下大阪に於て処刑され、茲に事件は一切の終結を見るに至つた。

 
 

 大塩事件に際しては、義徒の後累に対して罪三族に及ばざる寛典が施されたといふが、其の一挿話として東区釣鐘町二丁目正福寺住職宗円(現住職の祖父)の妻ナオに関する事事実を見よう。ナオは平八郎の妹であり、嫁して正福寺に在つたが、乱後奉行所に引かれ免されて後、公儀を憚り、天満与力金井塚与四郎の好意により其の養女分として正福寺に帰住せしめられたといふ。

 
 


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