その5
『東区史 第1巻』
(大阪市東区役所 1942)所収
五 事件の影響 | ||
二月二十四日、林大学頭方に参りとひ計ることのありて、夕かた迄居たりしに、大学頭申せしは大阪町与力の隠居大塩平八郎謀反いたせし由、彼地の町奉行跡部山城守よりして、内々御勘定奉行矢部駿河守方へ申参りたり。是は山城守同心平山助次郎義、平八郎巧候趣、山城守え同十七日申聞候に付、同人も覚悟いたし、其段駿河守之申越候旨にて、同人より大学頭え申(物?)語候由也。平八郎は王陽明派の学者にて、謀叛の念などあるべくもおもはれず。よしあればとて狂人の事故、何程の事かあるべきなど申候て其日は帰りぬ。同廿六日登城せしに、同日御城へ大阪よりの飛脚到来いたし、大塩平八郎宅より出火いたし、大筒火矢等を以て焼立候に付、取鎭方夫々手配有之候旨申参り候由にて、御老中方も退出、七ツ半時過に相成、其節駿河守物語に、早大阪は落城し、堀伊賀守は京都へ迯参り、跡部山城守は百目筒に当り首微塵に砕候由、事々敷物語大造の事に候得共、某存ぜしは平八郎者浪人ものにて、其上白昼に自焼いたし取懸候にて、最早大事之難成事は明也。 | ||
暮臣堕落 の一挿話 |
と記されてゐるのにも江戸の驚愕の一端は示されてゐる。松代藩侯が水戸烈公に話されたといふ其の頃の話の中に、松代侯へ出入する江戸の旗本の中で、今度大阪に一揆があつたについては、往々どんな騒ぎにならうも知れないから、甲冑の支度をしておかなければ困るがその用意がない。就いては貴藩より是非拝借願ひたいといふ依頼があつた。藩侯はよつて甲冑一領を遣はされた。而も旗本の体面を汚さぬやう極く内々に遣はされたのである。然るに旗本は一向に之を恥辱とも思はず同僚に吹聴したので、それをと聞いた他の旗本は我さきにと真田屋敷に詰めかけて甲冑貰受けを談じ込み、果ては縁も由縁もない者迄頼み込む仕末に、真田も遂にあきれ果て、一切その依頼を拒絶したといふことであるが、この一挿話にも当時の幕臣堕落の一面と共に、大塩の乱の幕臣に与へた影響を察せしむるものがある。 | |
箝口令と 治安維持 |
江川太郎左衛門が斎藤弥九郎を大阪に派し、平八郎の蹄跡探査に当らしめたのも這間の事情を窺はしめるものである。乱後幕府は『湯屋髪結所等へは、世上の取沙汰善悪によらず申間敷候旨、張札有之、平八郎の事など少しも咄出来兼候模様』(「大塩騒動聞書」)の状態に箝口令を布き、治安維持と影響の妨止に腐心したが、乱は水の低きに就くが如く人々の間に語り伝へられ、世人に深い印象を与へたのである。而も幕府が義徒の罪を断ずるに極罰を以てしたにも拘らず、世人の大塩と称するに平八郎様を以てしたことは、天保の乱が如何なる意味に於て世人に影響するところがあつたかを想像せしむるものである。 | |
残党の騒 動 |
天保八年四月備後三原に、同七月摂津能勢に大塩の乱の影響として農民の暴動があり、同年五月には越後柏崎に於て生田万は大塩平八郎残党と称して乱を起した。平八郎の行動が与へた影響は極めて深刻なものを帯びて来たと言ふベきである。天保九年以降の水野越前守による天保の改革を不可避としたものは実にかゝる社会状勢であつたのであり、大塩事件の影響が愈々深刻であつたことが考へられるのである。 | |
佐藤信淵 維新改革 の点火 |
なほ此の事件が同時代人若しくは後人に与へた思想的感化の偉大さに就き其の一例として佐藤信淵を見よう。彼の前半期の著述は改良主義的傾向に於て特徴づけられるが、それは天保五年前後に於て終結し、後半期の著述の変革的な傾向が天保九年頃より漸く顕著となる。其の変化は全く大塩事件の影響として考へることがでさる。即ち檄文の冒頭『四海困窮天禄永終』の標語が、彼の後期の著書に常に引用せられてゐることによつて知ることができる。大塩事件は確に時代の乱兆と此の一挙に示したもので、それが後の討幕運動に一大刺激を与へたこと亦云ふ迄もない。西郷・大久保を始め、薩藩の有志が如何に大塩の檄文を熟誦したかは想像の外にあつたと伝へられる。此の事は独り薩藩のみならず、諸藩勤皇志士に於て見られたところであつたらう。維新改革の炬火は既に大塩事件に於て点火されたと云はねばならぬ。 | |
島本仲道 |
政府の保安條令によつて三年の退京を命ぜられた海南の民権論者島本仲道は明治二十年「青天霹靂」一書を著して大塩平八郎の事功を讃えたが、其の巻首に『天保丁酉ノ挙ハ決シテ所以ナキノ暴挙にアラズ、窮民ヲ救ント欲スルノ至情、内に熱シテ黙止ス可ラザル者アリ、是以テ止ム事ヲ得ズ、一身ヲ犠牲に供シテモ為ス事アラントスルノ義心に発シタル者ナルヤ知ルベキナリ』と書いてゐる。大正期に入つて第一次欧洲大戦後の民主々義思潮は再び大塩の乱を回顧せしむる契機となつた。大正八年刊相馬由之著「民本主義の犠牲者大塩平八郎」は其の一例となる。書名の既に之を暗示するものがあるが、同書に叙する大隅重信の文に、平八郎天保の乱が時報を匡救するに与れるものと断ずるのは、正しく大塩事件を批判するものといへよう。 | |
海外脱走 説 |
大塩父子自刃の後永く大塩海外脱走説 (註) が誠しやかに伝へられ、人呼ぶに大塩様を以てしたことも、彼に対する英雄観の働くと共に、彼の行動に対する時人の敬慕も秘めたものに外ならなかつた。後人の平八郎に対する回顧も、その由来するところは夫々の時代思潮に負ふとはいヘ、固より彼の事蹟に対する称揚の余に出てゐる。平八郎の存在はかくして大塩事件の回顧と共に永久に存続するであらう。 註 | |