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大塩の乱関係論文集目次


「横山文哉と島原・三之沢村」

その3

井形正寿

1995.10『大塩研究 第32号』より転載


◇禁転載◇

文哉の生いたち、人物像

 横山文哉が天保八年二月二十日に、西町奉行所内で大坂代官根本善左衛門の手の者に捕えられた時の仮口上書(5)には、吟味の次第が次のように記されている。

とある。大塩平八郎と横山文哉との出会いについては『大塩平八郎一件書留』のなかで、「去る子年中前書大塩平八郎知る人相成、追々懇意いたし候付、うた 儀平八郎方へ家事向手伝として同人方江差出候」とあるので、横山文哉が大塩平八郎と出会ったのは文政十一年の子の年であると見られる。

 以上のことから、横山文哉の経歴及び事変直前の行動を箇条書にすると次のようになる。

 これだけでは横山文哉の人物像を浮び上がらせることはできないが、肥後出身の儒学者、松崎慊堂の『慊堂日暦』のなかの天保八年四月の記事(7)に次のような一挿話が書かれている。

 この痛快な平八郎と文哉のやりとりのなかに人間、横山文哉をみることができる。この松崎慊堂は江戸・昌平黌で学び、掛川藩校教授となり、諸大名に講説を行ったリしている。大塩が松崎に『洗心洞箚記』を贈っているところからすれば、松崎は大塩の言動に関心があったから、右のようなやりとりを聞いたのであろうが、横山 文哉は大塩を通じて当時の学者の間ではかなり知られた存在であったのではなかろうか。


一補註一
(5)前(4)の『塩逆述』五巻十二丁−十三丁
(6)筆者とは寺小屋などの師匠などを指すものと思われる。六平次は卯平次または卯平治として後出するので、誤字は明白。
(7)平凡社発行東洋文庫『慊堂日暦』五巻四七頁下段


同志の人びとと血盟

 横山文哉は森小路村に居住していたが、隣村が千林村であり、千林村の隣村が貝脇村である。この貝脇村の旧家山口彦三郎は、延宝七年以来代々庄屋を勤め、「寺屋」または「彦さん」と呼ばれていた。この山口彦三郎はどのような経緯があって、文哉を森小路村に居住する世話をしたのかわからないが、『東成郡誌』によれば彦三郎は、大塩の家塾・洗心洞の門下生であって、寺小屋を経営し、書 の名家といわれていた。大塩もたびたび当家に来遊したとある。また彦三郎が「乱に与する調印を為し居らざりしかば、闕所に処せらるを免れたり」と『東成郡誌』にある。

 この山口彦三郎や横山文哉が居住していた地域の周辺には大塩の有力な門人に次の人びとがおり、いづれも乱に参加している。

般若寺村 庄屋 橋本忠兵衛 守口町 庄屋 白井孝右衛門 般若寺村 年寄 柏岡源右衛門 般若寺村 百姓代 柏岡伝七

 横山文哉と右の人達との親しい交友が考えられるが、詳しいことはわからない。

 大塩との出会いから血盟にいたるむすびつきについて、江戸評定所における『大塩平八郎一件書留』の「吟味伺書」(8)に横山文哉の自白書ともいうべきものがあるので、次に再録して明白にしておこう。

 この「吟味伺書」によって文哉は森小路村に住居しはじめたのは文政四年であることがわかる。妻は大坂天満裏門筋市左衛門娘もくとなっており、大坂代官根本善左衛門の「仮口上書」はさきに書いたが、この「仮口上書」では下福島村横超寺娘を貰受たとなっている。施行札は「仮口上書」では三十枚が「吟味伺書」では三十七枚となっている。文哉の血盟についでは、「酩酊もいたし居候事故(ことゆえ)」とことわっているが、大筋に於てはすでに源右衛門、伝七が連署している後ヘ、自筆で書判したとしている。


一補註一
(8)前(3)の『大塩平八郎一件書留』一九二ページ上段


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