井形正寿
1995.10『大塩研究 第32号』より転載
横山文哉が天保八年二月二十日に、西町奉行所内で大坂代官根本善左衛門の手の者に捕えられた時の仮口上書(5)には、吟味の次第が次のように記されている。
松平伊豆守領分 摂州東成郡森小路村
酉二月廿日召捕入牢 医師 文哉
右の者一ト通吟味仕候処、肥前国嶋原之内三沢村筆者(6)六平次忰ニ而弐ケ年以前国元出立致、医術修行仕、十七ケ年程以前摂州貝脇村彦三郎世話ヲ以、森小路村に住居医業致、下福島村横超寺の娘を妻に貰受、子供三人出生、尤妻之母うたを引取世話致、家内六人暮罷在候
本文うた義七八年以前、大塩平八郎方へ罷越、縫物家中世話致し当月十九日朝迄罷在候処出火ニ付文哉方へ立戻り、直様八幡辺へ罷出候由、同人申出候処、京郡にをひて伊豆守殿方へ召捕ニ相成候由御座候
然ル処当正月下旬、平八郎方へ罷越候処、施行札三拾枚相渡り候間、村内困窮之 人々相渡、右挨拶旁募当月五月六日頃と覚、罷越候処、此度宜企在之候間連判可 致旨、平八郎申聞、壱通之書付読聞セ文体得と覚不申候得共、文王武王之御代ニ被成候御企ニ付、先生御差図之通り何事も違背仕間敷旨之文意ニ付、横山文哉与自筆ニ而認入、自判致、其前、般若寺・源右衛門、伝七義も連判在之、尤当月十九日者在宿罷在候節申聞候……
とある。大塩平八郎と横山文哉との出会いについては『大塩平八郎一件書留』のなかで、「去る子年中前書大塩平八郎知る人ニ相成、追々懇意ニいたし候ニ付、うた
儀平八郎方へ家事向手伝として同人方江差出候」とあるので、横山文哉が大塩平八郎と出会ったのは文政十一年の子の年であると見られる。
以上のことから、横山文哉の経歴及び事変直前の行動を箇条書にすると次のようになる。
○肥前国島原・三之沢村生。
○筆者卯平次の忰。
○文政元年(一八一八)ごろ国許出立、医業修業。(修業先不明)
○文政三年(一八二○)頃、貝脇村彦三郎の世話で、森小路村で医師開業。
○下福島村横超寺娘もくを妻としてめとる。
○子供三人(太郎吉・辰三郎・よね)
○義母うたを引取同居、文政十二年か天保元年(一八二九−三○)に大塩平八郎屋敷へ同人住込。
○天保八年正月下旬、平八郎から施行札三十枚を渡され、これを村内に配布。
○同年二月五、六日頃に大塩宅で同志として血判。
これだけでは横山文哉の人物像を浮び上がらせることはできないが、肥後出身の儒学者、松崎慊堂の『慊堂日暦』のなかの天保八年四月の記事(7)に次のような一挿話が書かれている。
「……島原の書生、横山文哉は五、六年前に大塩平八を訪う。平八これを留めて夜半、酒を設けて歓ぶこと甚だし、平八は文哉に謂つて曰く、もし吾が大事の発することを有ると聞かば、子は来るかと。
文哉曰く、君あり父あり、自由にするを得ず。足下のいわゆる大事とは何ぞやと。
平八曰く、足下は信に忠臣孝子なりと……」
この痛快な平八郎と文哉のやりとりのなかに人間、横山文哉をみることができる。この松崎慊堂は江戸・昌平黌で学び、掛川藩校教授となり、諸大名に講説を行ったリしている。大塩が松崎に『洗心洞箚記』を贈っているところからすれば、松崎は大塩の言動に関心があったから、右のようなやりとりを聞いたのであろうが、横山 文哉は大塩を通じて当時の学者の間ではかなり知られた存在であったのではなかろうか。
一補註一
(5)前(4)の『塩逆述』五巻十二丁−十三丁
(6)筆者とは寺小屋などの師匠などを指すものと思われる。六平次は卯平次または卯平治として後出するので、誤字は明白。
(7)平凡社発行東洋文庫『慊堂日暦』五巻四七頁下段
横山文哉は森小路村に居住していたが、隣村が千林村であり、千林村の隣村が貝脇村である。この貝脇村の旧家山口彦三郎は、延宝七年以来代々庄屋を勤め、「寺屋」または「彦さん」と呼ばれていた。この山口彦三郎はどのような経緯があって、文哉を森小路村に居住する世話をしたのかわからないが、『東成郡誌』によれば彦三郎は、大塩の家塾・洗心洞の門下生であって、寺小屋を経営し、書
の名家といわれていた。大塩もたびたび当家に来遊したとある。また彦三郎が「乱に与する調印を為し居らざりしかば、闕所に処せらるを免れたり」と『東成郡誌』にある。
この山口彦三郎や横山文哉が居住していた地域の周辺には大塩の有力な門人に次の人びとがおり、いづれも乱に参加している。
般若寺村 庄屋 橋本忠兵衛 守口町 庄屋 白井孝右衛門 般若寺村 年寄 柏岡源右衛門 般若寺村 百姓代 柏岡伝七
横山文哉と右の人達との親しい交友が考えられるが、詳しいことはわからない。
大塩との出会いから血盟にいたるむすびつきについて、江戸評定所における『大塩平八郎一件書留』の「吟味伺書」(8)に横山文哉の自白書ともいうべきものがあるので、次に再録して明白にしておこう。
「文哉は肥前国嶋原三沢村卯兵次忰ニ而、文政四巳年中摂州森小路村江住居之上医業いたし、其後大坂天満裏門筋市左衛門娘もくを女房ニ貰受候処、市左衛門病死いたし、同人後家うた取続兼候間、姑之儀ニ付此もの方江引取世話いたし罷在候処、去ル子年中前書大塩平八郎知ル人ニ相成、追々懇意ニいたし候ニ付、うた儀平八郎方家事向手伝として同人方江引越居候儀ニ而、去酉正月日不覚、平八郎差出候施行札三拾七枚受取村内難渋人共江渡遣候儀は前書孝右衛門等同様申之、其後同二月日不覚、右挨拶として平八郎方江罷越酒給合候節、有施行而已ニ而は行届間敷候間、窮民救之計義存立候由を以同意之儀申勧、誓書読聞血判可致旨平八郎申聞、右文段聢とは不覚候得共、右存附候ニ付而は諸事同人差図之通違背いたす間敷と之趣意ニ而、素無道之企とは不存、且は酩酊もいたし居候事故、旁委細之儀承詰候心附も無之、承知之趣相答右誓奥書ニ前書源右衛門・伝七連名有之候間、其次江自筆を以名前書判相認差出、其後平八郎不容易企之趣承り驚入罷在候処、被召捕候儀之旨申立候」
この「吟味伺書」によって文哉は森小路村に住居しはじめたのは文政四年であることがわかる。妻は大坂天満裏門筋市左衛門娘もくとなっており、大坂代官根本善左衛門の「仮口上書」はさきに書いたが、この「仮口上書」では下福島村横超寺娘を貰受たとなっている。施行札は「仮口上書」では三十枚が「吟味伺書」では三十七枚となっている。文哉の血盟についでは、「酩酊もいたし居候事故(ことゆえ)」とことわっているが、大筋に於てはすでに源右衛門、伝七が連署している後ヘ、自筆で書判したとしている。
一補註一
(8)前(3)の『大塩平八郎一件書留』一九二ページ上段
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