井形正寿
1995.10『大塩研究 第32号』より転載
横山文哉は森小路村に居住していたが、隣村が千林村であり、千林村の隣村が貝脇村である。この貝脇村の旧家山口彦三郎は、延宝七年以来代々庄屋を勤め、「寺屋」または「彦さん」と呼ばれていた。この山口彦三郎はどのような経緯があって、文哉を森小路村に居住する世話をしたのかわからないが、『東成郡誌』によれば彦三郎は、大塩の家塾・洗心洞の門下生であって、寺小屋を経営し、書
の名家といわれていた。大塩もたびたび当家に来遊したとある。また彦三郎が「乱に与する調印を為し居らざりしかば、闕所に処せらるを免れたり」と『東成郡誌』にある。
この山口彦三郎や横山文哉が居住していた地域の周辺には大塩の有力な門人に次の人びとがおり、いづれも乱に参加している。
般若寺村 庄屋 橋本忠兵衛 守口町 庄屋 白井孝右衛門 般若寺村 年寄 柏岡源右衛門 般若寺村 百姓代 柏岡伝七
横山文哉と右の人達との親しい交友が考えられるが、詳しいことはわからない。
大塩との出会いから血盟にいたるむすびつきについて、江戸評定所における『大塩平八郎一件書留』の「吟味伺書」(8)に横山文哉の自白書ともいうべきものがあるので、次に再録して明白にしておこう。
「文哉は肥前国嶋原三沢村卯兵次忰ニ而、文政四巳年中摂州森小路村江住居之上医業いたし、其後大坂天満裏門筋市左衛門娘もくを女房ニ貰受候処、市左衛門病死いたし、同人後家うた取続兼候間、姑之儀ニ付此もの方江引取世話いたし罷在候処、去ル子年中前書大塩平八郎知ル人ニ相成、追々懇意ニいたし候ニ付、うた儀平八郎方家事向手伝として同人方江引越居候儀ニ而、去酉正月日不覚、平八郎差出候施行札三拾七枚受取村内難渋人共江渡遣候儀は前書孝右衛門等同様申之、其後同二月日不覚、右挨拶として平八郎方江罷越酒給合候節、有施行而已ニ而は行届間敷候間、窮民救之計義存立候由を以同意之儀申勧、誓書読聞血判可致旨平八郎申聞、右文段聢とは不覚候得共、右存附候ニ付而は諸事同人差図之通違背いたす間敷と之趣意ニ而、素無道之企とは不存、且は酩酊もいたし居候事故、旁委細之儀承詰候心附も無之、承知之趣相答右誓奥書ニ前書源右衛門・伝七連名有之候間、其次江自筆を以名前書判相認差出、其後平八郎不容易企之趣承り驚入罷在候処、被召捕候儀之旨申立候」
この「吟味伺書」によって文哉は森小路村に住居しはじめたのは文政四年であることがわかる。妻は大坂天満裏門筋市左衛門娘もくとなっており、大坂代官根本善左衛門の「仮口上書」はさきに書いたが、この「仮口上書」では下福島村横超寺娘を貰受たとなっている。施行札は「仮口上書」では三十枚が「吟味伺書」では三十七枚となっている。文哉の血盟についでは、「酩酊もいたし居候事故(ことゆえ)」とことわっているが、大筋に於てはすでに源右衛門、伝七が連署している後ヘ、自筆で書判したとしている。
一補註一
(8)前(3)の『大塩平八郎一件書留』一九二ページ上段
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