井形正寿 1995.10『大塩研究 第32号』より転載
幸田成友の『大塩平八郎』のなかで、大慶直胤というものが大塩乱の始末を詳細に江戸に報じた手紙のことが述べられているが、それによると「大塩隊は三陣に分れ、先陣の大将は大塩格之助、中陣は大塩平八郎、後陣は瀬田済之助で、各隊に配布せられた徒党の氏名のみならず、大砲の門数、これに伴う人夫の員数、面々の武器類まで書いてある」と記されている。この大塩勢の陣列のなかには文哉の名前はないが、世上に伝わっている聞書のなかに陣列書として、文哉の名前が記載(9)されているものもかなりある。さきの『大塩平八郎一件書留』のなかで市中を引き廻した大砲など五挺のうち四挺の台車には宮脇志摩、大井正一郎、白井孝右衛門、橋本忠兵衛、瀬田済之助、平山助次郎、柏岡源右衛門、大塩格之助、庄司義左衛門、茨田郡次、額田善右衛門、近藤梶五郎、竹上万太郎、高橋九右衛門の名前が平八郎の自筆で書かれていた(10)とあるが、文哉の名前はない。文哉は当初の陣列のなかに書きいれられていたのが、特別の任務を与えられたので除かれたのではなかろうか。これを裏付けるものとして『大塩平八郎一件書留』のなかで白井儀次郎の吟味伺書には次のように書かれている(11)。
「此儀次郎儀、大塩平八郎頭取徒党を結ひ、大坂表富家之町人共焼払、貯置候金銀、窮民共江分ケ可遣由之企ニ彦右衛門親孝右衛門も一味いたし、右異変発起之節、奉行所最寄江徒党人数之内伏置放火およひ、捕方之気先を可折手筈ニ而、松江町辺貸座敷借置候趣を以、加勢可致旨孝右衛門申聞ニ同意いたし、彦右衛門下男と偽、右貸座敷江引移、追而平八郎等市中放火及乱妨候段承り、兼而同人譲受候刀・脇差を帯、放火之差図相待罷在候始末不届ニ付、死罪可申付哉之段可相伺処、病死仕候」
この文中にある”右異変発起之節、奉行所最寄江徒党人数之内伏置放火およひ、捕方之気先を可折手筈”とあることから考えてもゲリラ活動を命ぜられたものが、儀次郎のほかにも、数人いたと見るべきであろう。この「はじめに」も書いたように、文哉は任務遂行のため類焼寸前で火の手が迫っていた西町奉行所に「防火人足に紛れ込み……火付け可申手筈にて入り候」と自白していることは西町奉行所に潜り込んだ意図が、特別な任務を与えられていたということのようだ。「君あり父あり、自由にするを得ず」(『慊堂日暦』)と云った文哉が、遂に師に殉じたということか。
一補註一
(9)井形正寿所蔵『大塩一件写』文久二年辻本氏旧蔵弐編「乱妨の者行列之事」として「横山文斎」同『大塩一件控書』(仮題)の陣列書に鑓持として「文哉」の名前が見える。
(10)前(3)の『大塩平八郎一件書留』三五頁上段(朱書)
(11)前(3)の『大塩平八郎一件書留』一九五頁下段−一九六頁上段
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