井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
この後凋生は冒頭から劇しい口調で次のように反論を展開している。
奥 並継君が「大塩平八郎父子欧洲に失踪す」というは題号を揚げ、大塩父子 が天保八年丁酉に乱を起こし死したりとは虚伝にて、実は大塩の乳母の里、河内のさらさ形屋五郎左衛門の家にかくれ、それより逃れて肥後薩摩の間に潜伏し、さらに清国福州に行ったと述べている。その根拠とするところは、秋篠の次女が父の口から、大塩父子と海外まで同行逃避したあらましを聞き、この肉 親の言を信じたようだが、人は時と場合によって心にもない広言虚事を吐くこ とがあり、また親子の間でも止む得ず欺くことがある。このような大塩父子逃 避という歴史上の疑義を確実な証拠も示さないでは、単なる秋篠の寝物語で、 世人は納得しないことだ。
と反論し、続いて―
大塩の乱は、二百余年昇平打続いたる事変であるから、人びとの記憶も新たで、その事実関係の記録も随分、世間に伝播しているから、かかる曖昧模稜の説には容易に信ずることはできない。
と明治時代特有の漢文口調が随所にあって激烈な攻撃をしている。このあと―
奥 並継は前四等編修官であり、碑文をも撰んでいるのだから、世間はこれを信ずるであろうが、当時の有力な記録を掲載して、以って是が弁妄に代う。
としている。
これに続いて、後凋生が極めつきの重要な記録として採用したものは、大塩父子が潜伏していた美吉屋五郎兵衛宅へ逮捕に向った時の大坂城代土井大炊頭家臣の詳細なる覚書を第一に掲げ、第二には両町奉行の逮捕当日の報告書と大塩父子及びその党類逮捕取消のお触れ書をもって、奥の大塩父子欧洲失踪説に対し後凋生は反論を補強している。
その反論の要点は次のとおりである。
(一)大塩父子の隠家は大坂市中油掛町美吉屋五郎兵衛宅であることは大坂城代家臣の覚書、両町奉行所の報告書の記録によって明らかであるのに、奥説は大塩父子ら十余人が乳母の里、河内国更紗屋五郎左衛門宅の土窖中に潜匿したとしている。また捕手に向った与力吉見新左衛門とあるが、西町奉行書与力内山彦次郎であることは土井大炊頭家臣の覚書で明らかである。
(二)奥説は更紗形屋五郎左衛門方の土窖中に大塩父子はじめ十一名が潜伏し、父子ほか二名は此処に落延びたあと、残った七名に捕手がかかり、土窖中七門の大砲一時に発射し、捕手、潜伏者共に焼死。その容貌は焼爛していたが、大塩家の定紋つき、すね当が見つかったので、大塩父子は焼死したとしているが、どっこい大塩父子は生き延びたというのに対し、後凋生は、当時そのような浮説はあったが、現に逮捕に向った町奉行所の与力同心は大塩と面識のある者だから、大塩を十分熟知しており三度まで現場で言葉争いをしている。その上、火中ながらその自決の様子を目撃し、土井の家臣に投付けた脇差は、平八郎が常に帯びていたものと確認せられている。また父子を潜伏せしめた美吉屋五郎兵衛が一切を白状している。
(三)大坂城代や町奉行が疑わしい死体を大塩父子なりと江戸に報告するなどは決してないはずであると強調し、いかに幕府が終結を急ぐとはいえ、疑わしきにかかわらず、その儘曖昧に終局をはかったとは思われない。大塩父子及びその与党召捕の手配触書は乱発生後直ちに出されたが、その者らは召捕または自滅したとして、その年の四月にその取消を布告したことは確証があっての発令である。
以上のように後凋生は奥説を妄断と決めつけている。
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