井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
ところがこの奥説を敷衍するというより、むしろ弁護するといった形で戸水信義 (3)なる人物が『史談会速記録』の明治三十三年八五号に「大塩平八郎渡欧異聞」(4)として、明治三十二年九月十六日の談話を速記録に残している。
この速記録に記録されていることで重要な点を次に摘出する。
(一)明治三十一年に奥 並継の五年祭の法要が営まれているから、明治二十七年に死亡したこととなる。
(二)奥 並継の五年祭に戸水の同僚が並継の息子奥 豊彦と親交があったので、並継の詩文章類と並継ゆかりの者が詠んだ詩歌を編集し、これを『菱地遺稿』と名付けた本を出版した時、戸水がこれに協力した。その本の巻頭に重野先生が書かれたという「嶽父秋篠翁墓表」という文章の一篇があり、それが当時の新聞紙上でも話題になったという。この墓表は先に書いた秋篠昭足の墓の碑文と少し相違するところがあるので掲げて置いた。
嶽父秋篠翁墓表
翁諱昭足、東坊城左馬助諱神足之庶出、冐秋篠氏、居大坂、天保八年酉春、大塩平八郎作乱、翁与大塩為姻戚、是以夙与其謀、及敗、与大塩父子及其徒十二人遁于河内、竄土窟中、自尽者七人、及泛海遁于肥前天草、居歳余、更航入清国久之、大塩父子避跡欧罹巴、翁与其徒三人還于長崎、以医為業、往来於天草島原間、初翁娶天草五稜村長岡氏、生二女、長女巳出嫁、翁独与季女居、明治五年壬申、余在熊本鎮台納季女生一男、後翁還大阪、改姓名曰伊藤吉平、十年丁丑十一月十五日病歿、享年八十四、葬于城東龍淵寺塋域、二十三年庚寅十月、建石表之
この墓表を書いたのは重野先生とあるが、歴史家・漢学者で歴史上の重要人物を矢鱈と抹殺したので、抹殺博士の異名をとった重野安繹であるようだ。重野安繹については後で述べることとする。
(三)奥 並継の妻(秋篠昭足=改姓伊藤吉平の次女。並継の存命中に離縁したため旧姓に復籍して伊藤美喜と称していた)はその当時東京・錦町に在住していた。戸水は豊彦を介してこの伊藤美喜を訪問した時(明治三十二年八月七日)に美喜は次のように語っている。
秋篠昭足と清国から一緒に帰国したのは喜楽斎文定という、河内生れで外科の医者で戻って来てから島原にいた。秋篠と喜楽斎文定が酒でも飲むと、あの時はひどいことだったと清国への逃避行の話を両人でしているのを美喜は傍で聴いていた。
(四)さらに美喜は父およぴ夫から聴いた話を戸水にしている。この部分を『史談会速記録』から原文のまま次に再録する。
平八郎ハあの二月十九日の騒乱が破れました後に、河内の国へ行きまして、更紗形屋五郎兵衛といふ者の家え参りました。此人の妻は大塩格之助の乳母であつた様子で、其の縁故より尋ねて行つた所、五郎兵衛がかくまふて呉れた様子でござります、さうして四五日ばかりも居ました所、更紗形屋に子守女か居て、其れか病気の為めに生れ在所へ戻りて、其の女の話に更紗形屋ハ家内の人員の割にハ米か多く要ると云ふ事を言って、其れが探偵のやうな人の耳に入つて更紗形屋へ探索に来た者もあつたなれども、別に住居人も無い所より何ぞ密室があるに相違ないといふ考へで、何処々々までも調べて様子に依れば家を毀つても宜いから厳重に調ベて見たが宜いと云ふ事になった様子、又大塩の方はあれだけの人物であるから、大塩の耳目となつて種々のことを告げたりする者もあつた様子で、子守女の口から出たことが探偵者の耳に入って此頃斯う云ふ事が生じて来たといふ事が大塩の耳に入つて、そこで大塩父子私の父秋篠及び喜楽斎文定今の一人と都合五名は坊主になり脱走致しました。残り七名の者ハ更紗形屋の隠れ家に隠れて居りまして、固より大塩の見代りになる決心で居つた所、或日同心の頭分の吉見新左衛門を始め、四五十人更紗形屋に来て捜索の時、余程家を毀つた様であるが、一向居る処が判らぬ、文章にハ土窟とあるも実は土窟でなく、土蔵のやうな塗家で隣家と見るやうな家であつたそうです、捕手の人はこれでもあるかと言つて取掛らうとすると、塗屋の内より木銃を放つて吉見及び同心体の者が大分怪我を致した様子で、又七人の者は其の木銃の火薬にて黒焦になりまして死んで仕舞うふた、其の中に大塩に似た屍を運ひ来て、其れが大塩平八郎と云ふ事になつた様子、扨又平八郎等はドウいふ訳で島原、天草の方に行つたと云ふに、旧と秋篠の処に居つた草履取の者が天草の生れで、武芸もやり忠実なもので秋篠も余程心を附けて使ふて居つた、其れが周旋して天草に逃げた、此文章には泛海とあれども、海バかりてなく山間幽谷の間を行つたものか、三日も物を食はすに逃げたと云ふことも聞えて居ります、人通りのない道で困つたと云ふ事をも聞いて居ります、其れで見れば所に依りては海ばかりでなく、山間からも逃げたやうに見えます。其れから天草に行つて五稜村に七十七ケ村の庄屋を勤めて居ります長岡行之助と云ふ者が私の母の父で其息子は五郎左衛門と言つて気慨あるものでこれハ肥後熊本の長岡監物さんの同姓で久しく住居をして居る家で、此家ハ暫く隠れて居りまして、其れから天草の国松寺へ参りました。エテン和尚といふが其時の住職で、気慨のある親切な人で、此五人の者をかくまひ呉れまして、其の所に一年余り居つた様子で、此の寺ハ具の時分罪人でも此の寺ヘドウか斯うか逃げ入れバ其の時の制度で捕手が踏込んで捕縛することが無つた様子で、其処に一年余り居つた内に長崎の宗福寺といふ寺の住職が此エテン和尚と懇親で、其処でエテン和尚の添書を貰ふて宗福寺へ参つて暫く逗留して居りました、ところが其内に支那人の周アイテイと云ふ男が商人であつて医者を側らやつて居つた所から、其の宗福寺ヘも折々来ました様子で、其れから心易くなりました。其周アイテイの計らひで五人共同行して支那の黄檗山へ参つた様子で、其の内に五人の内の一人名を聞洩した者が逗留中に病気が出て、其の囈語にドウか日本に戻りたいと言つたという様子で、他の四人も憫然に思ふて、其れなれば一旦日本に戻ることに仕様と言つた、ところが大塩父子は日本え帰ることハ嫌やと言つて五人とも同日に出立したが大塩父子ハ欧洲へ行き、後の三人は長崎へ戻りました、其船中で黄檗山で発病した人は死にまして、秋篠と喜楽斎ハ長崎に着き、秋篠は川上主膳と姓名を改て医者を為し其れから両人とも島原へ行き、島原、天草の間を往来して医者をして居つた所、文定は元治の前後に死にました、其前に女房も持つて男子も一人居ましたが、これも其前後に皆死で仕舞いました、其処で川上主膳は島原に居てから後西京に出ました、西京にハ主膳の姉に春といふ者が居て、其が御所におくろどの勤めを致して居ました其の勤めはドウいふ勤めでありましたか其の所は分りませねど、姉の周旋で御所の御書庫の取扱ひ役をやつて居た様子で、京都に居た内ハ塔の壇に住居して居ました、其れから程経て大阪に出て伊藤吉平と姓名を改めて相変らず医者をして居りました、此伊籐と申す苗字ハ私のをばの苗字でありまして、其を継ぎましたのでござりました、それでハ大塩が欧羅巴へ行つてから後に手紙でも来たことが無かつたかと尋ねたれば、それハあります、即ち今の虎列拉をコロリと言つた頃で安政の末か文久の初めかに、欧羅巴ハ何処であつたか知らぬが、大塩から手紙が来て其れを父が読んで居る内に涙を飜ばしましたから、何であるか問ふと定の事を書いてあるからといひました、此定といふハ天草に大塩が居つた内に、或る女に馴合ひ定吉とか定松とか申す子を持ちました其子の名で、父が島原に居る時に此定が毎度来まして、父も親切に世話をして、時としてハ小遣も遣つて居りましたが、今申した手紙が来てから二三年後に定が死にました、其の後大塩から手紙が来た事が無いかといふと、其の前ハ知らぬ後も来たかも知らぬが一向見聞した覚がありませぬ、然らバ其手紙ハドウなつたかと尋ねると父の死にます前まで持つて居つたが、死にます前に此様の物を持ちしに遺して置くと宜くないと言つて火中した故に只今は書類ハ一切持ませぬ、其れでハ御親父様が支那から持つて帰られた物でもあるかといふと浅黄色の綾子に地模様のある幕と指渡六七寸許の八角の鏡と鹿の絵のある大形の銭を一文持つて帰りました、幕は幕では用を為さぬものであるから私の母が帯にしていました、其後私が締めて居りました、ところが明治十五年に其の帯と鏡ハ盗難に罹つて無くなつたが妙なことで帯ハ戻つて今に持つて居りますと段々話を致しました、又大塩との続柄尋ねましたところいとこであつたと申しました、
(五)戸水は補足として「河内へ行ったということは河の内に居たとか。或は河内へ行ったという話を思い違い、聞き違いで河内の更紗形屋五郎兵衛(実は油掛町美吉屋五郎兵衛)方へ参つたことになつたのではないか」と言っている。
(註)
(3) 戸水信義、金沢藩士。その子息戸水寛人は日露戦争のとき、主戦論者の東京帝大七博士の中心人物として目露開戦の建議書を政府に提出したので有名。
(4) 明治三十三年発行『史談会速記録』八五号四三頁〜五七頁「大塩平八郎渡欧異聞」国立国会図書館蔵
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