井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
今まで述べてきたことは秋篠昭足の墓に遠因する明治時代の大塩海外逃走説の風聞であるが、大正時代にも大塩平八郎の後学と称する石崎東国が主宰した『陽明主義』の大正八年十月号及び十二月号に再び戸水信義の話として「大塩父子海外脱走説」が大塩研究の記事となっている。これはさきに紹介した明治三十二年の『史談会速記録』の記事と内容は全く同じものだが、ただ記事後段に全国各地に伝わっている大塩脱走説の風聞説を補足紹介している。なおこの『陽明主義』の記事は大正七年の『北国新聞』新年号に掲載されたものを紹介、転載するという形をとっている。
昭和になっても、秋篠昭足墓の碑文のことは昭和十一年に石田誠斎が「大阪人物誌」で、続いて昭和十八年に有働賢造が「江戸時代と大阪」のなかでいづれもとりあげている。
以上述べてきたことを要約すると、秋篠昭足の碑文に対し、碑文を書いた奥 並継は『史論』で「大塩平八郎欧洲に失踪す」と確信の所論を展開し、これに対し後凋生が『古今史譚』で「大塩平八郎父子欧洲渡航の弁妄」と反論したが、戸水信義は奥説を『史談会速記録』で擁護する内容の発言記録を遣している。しかし、これらを通読、考察してみると、明らかに聞違い、思い違い、とリ違い、勘違いなどが多々あるが、これは永い歳月のうちに伝聞も風化することは止む得ないことだと思う。秋篠昭足の碑文の内容が個人−奥並継の伝聞として伝わることはよいとしても、これが総て史実として伝われば影響するところが多いので、現在の時点でわかっている範囲内で碑文の内容ひいては奥 並継の所論等の疑問箇所を糺して後世に伝えることは、大塩事件を研究するものとしては当然のことではないかと考えるので、いままで確認できたことを述べてみたい。
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