Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次


「秋 篠 昭 足 の 追 跡
―大塩平八郎天草逃避説を洗う―」

その6

井形 正寿

『大塩研究 第27号』1989.11より転載

◇禁転載◇

 秋篠昭足とその一行

 秋篠昭足と大塩との開係については墓の碑文で「戚属」となっている。戸永信義は『史談会速記録』の”嶽父秋篠墓表”のなかで「姻戚」としている。しかし、大塩の親戚、縁者のもののなかに該当するものはないかと詮索し、また暮府評定所の吟味記録などをみてもそれらしき者は見当らない。

 墓の碑文に「其謀及敗与大塩及其徒十二人遁河内」とあるから、大塩父子及ぴ其徒十二人であるから合計十四人となる。大塩が乱を起した当日の午後、淡路町堺筋での市街戦のあと、敗色が濃くなり、銘々随意に撤退すべきことを大塩は命じている。東横堀川から八軒家にいた時の一行は幕府評定所の吟味記録でも、幸田成友の『大塩平八郎』などでもその人数は十四人としている。即ち大塩平八郎父子、瀬田済之助、渡辺良左衛門、圧司義左衛門、白井孝右衛門、橋本忠兵衛、柏岡源右衛門、西村利三郎、茨田郡次、高橋九右衛門、杉山三平、済之助若党周次、大工作兵衛ということになっている。人数は他の記録などとも偶然一致するが、この一行のなかには秋篠らしい人物はいない。一行十四人のうち九人は途中で分かれて平八郎父子、済之助、良左衛門、義左衛門の五人となり、河内から大和を目指して逃走中義左衛門は一行を見失ってはぐれてしまい。さらに済之助は縊死、良左衛門は自殺し残る大塩父子のみが油掛町美吉屋五郎兵衛方へ潜入したとの評定所における美吉屋五郎兵衛及び同人女房つねの吟味書、町奉行所での杉山三平の乱後二日間の逃走経路についての申口などの記録がある。

 ところが、秋篠昭足の墓の碑文には「丈人及与大塩父子及其他五人、泛海遁于天草」とあるのは、大塩父子及びその他の者五人の計七人ということのようだが、大塩父子及び秋篠以外の四人とは誰をさすのであろうか。「丈人与其徒三人還于長崎」と碑文にあるが『史論』のなかで奥 並継は「翁(秋篠)及び四名は清国に居ること四年にして長崎に還れり」とあり、また「大塩父子は一名を従い、欧洲へ航せし」とあるから、秋篠らの長崎帰国組四人、大塩父子らの欧洲逃避組三人という計算になるのだが、奥は長崎に帰国した者として、秋篠のほかに佐藤文亭の名を明らかにしているだけで、残りの者については何等ふれていない。佐藤文亭は帰国後、天草、島原にあって方(調剤)を為し医を業としたとある。戸水信義が『史談会速記録』のなかで伊藤美喜から聞いた話として、清国黄檗山で発病し、帰国の船中で氏名不詳の者が一人死亡したとしている。また佐藤文亭のことを速記録では喜楽斎文定としている。


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「秋篠昭足の追跡」/目次/その5/その7

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