Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次


「秋 篠 昭 足 の 追 跡
―大塩平八郎天草逃避説を洗う―」

その7

井形 正寿

『大塩研究 第27号』1989.11より転載

◇禁転載◇

 秋篠の交友者

奥は『史論』のなかで秋篠が長崎に帰国後、清国において医術を学んだ関係から「翁(秋篠)及び四名は清国に居ること四年にして長崎に帰り、亦シーボルトに就て洋医の術を学びける時、恰も我先師帆足文簡先生の門人にて、後に島原藩に聘せられた賀来佐一、亦シーボルトの門に在て親しく相交りたる縁に由て、翁と佐藤文亭とは後に天草島原の間に在て、方を為し医を業とせしに其後文亭は病歿し、翁は明治八年、其二女伊藤みき孫美継と与に大阪に帰り、十年十一月病歿せり」と記している。

 シーボルトは文政十二年(一八二九)に帰国し、安政六年(一八五九)に再び来朝し、三年後の文久二年に帰国しているが、シーボルトはこの間、幕府顧問として江戸に行ったりしているから長崎滞在は短い。秋篠は、この短い間に師事したということに疑問が残る。しかし『史論』には「長崎に帰り、亦シーボルトに就て洋医の術を学び…」とあるのはシーボルトが最初に長崎に来朝した時に師事し、また再度の来朝に再び師事したということを意味しているのだろうか。シーボルトの門人については、最初の来朝時には詳しい記録が残されているが、秋篠と断定できる人物はいない。また『史論』に「我先師帆足文簡先生の門人にて後に島原藩に聘せられた賀来佐一、亦シーボルトの門に在て親しく相交りたる縁に由て…」とあるところの帆足文簡とは豊後日出藩の儒者帆足万里のことであり、賀来佐一とは帆足の弟子賀来佐一郎のことと思われる。佐一郎は最初帆足に学び後年シーボルトの鳴滝塾に入門して、西洋医学を学んだあと、天保五年に島原藩医となっているが、秋篠とは交友があったということか。

 秋篠昭足の墓の碑文にある「五稜 長岡氏」とは一体何者であろうか。『史論』『史談会速記録』から考えられることは、天草・御領村大庄屋十一代長岡五郎左衛門(興就)を指しているものと思われ、その五郎左衛門の姉(或は妹)を嫁にしたのが、秋篠昭足であるとしている。

 この長岡は「天草の佐倉宗五郎」といわれ天保元年父の死去により弱冠十四歳で八カ村支配の大庄屋の跡目を継いだ。義民といわれる所以は長岡は天草農民の窮状を訴えるため弘化二年江戸に出て、幕府勘定所に「かけ込訴」をして捕らえられ「宿預け」になったのを幸に宿を抜け出して老中筆頭阿部正弘の登城途中をまちうけて直訴をしたため、長崎奉行所に召還され、入牢を命ぜられた。弘化四年長岡は釈放されたが、再び百姓一揆を指導したため捕えられた。この一揆は農民一万五千人が動員され九十九軒の家が打こわされたという。長岡は乱心者として刑罰の執行は免れたが、親類の無期の座敷牢にいれられ、明治二年享年五十三歳で死亡した。このような経歴の長岡と革命家大塩との結びつきは何か、因縁めいて面白い話であるが、その事実関係はわからない。ただ、さきの『史談会速記録』のなかで「秋篠の処に居つた草履取の者が天草の生れで、武芸もやり、忠実なもので秋篠も余程心を附けて使つて居った。それが周旋して天草に逃げた」と秋篠の次女、伊藤美喜が父から聞いた話として伝えている。


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「秋篠昭足の追跡」/目次/その6/その8

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