井形 正寿 『大塩研究 第27号』1989.11より転載
『史談会速記録』ではこの長岡の家に暫く隠れていたあと「それから天草の国松寺へ参りました。エテン和尚というが其時の住職で、気慨のある親切な人で、此五人の者をかくまい呉れまして、其所に一年余り居つた様子…」とある。天草の国松寺とは現在の熊本県天草郡苓北町志岐の曹洞宗の国照寺のことのようだ。当時の住職は十一世慧天と云った。現在の住職田中琢道師のお便りでは「伝説によれば、十一世慧天大和尚は高徳な、そして相当なカを誇示された方と伺っています」とある。天草の大半の寺院は島原、天草の乱後に建立され、島民教化のため代官鈴木重成の招請によって国照寺も乱後十二年目の慶安元年(一六四八)に開山している。幕府から寺領五十石を附与され、天草四本寺の一として天草西北部の禅宗寺院を統轄し、更に「国照寺例格別之事」という次のような八か条特別証文も与えられた。(5)
国照寺例格別之事 一、役所江出仕之節大門下乗、最初独礼之事 一、諸堂建立之節、従公儀出銀之事 一、諸堂普請之節、従郡中木出之事 一、諸堂普請之節、従公儀人足等申付候事 一、公儀通、運上山致免許事 一、寺領百姓、公儀百姓不入組事 一、寺領百姓他国往来之時、出寺手形事 一、住持他園往来之時、出役所手形事 右之箇条国照寺義者四か寺本寺之内格別相定置者也 鈴木三郎九郎 印 志岐村 国照寺 納置也
右の八か条証文でも明らかなとおり、国照寺住職のお便りのように国照寺は大変な権力を持っていたようである。ただ、国照寺の住職はこの寺に大塩父子の一行が隠れていたかどうかについては、伝承や記録がないので、わからないとしながらも「もし大塩平八郎関係の人が当山に立寄っていられれば、なにかしらロマンを感じる」と述べられている。
大塩父子及び秋篠の一行はエテン和尚の添書を持って長崎の宗福寺を尋ね暫く逗留したと、さきの『史談会速記録』のなかで伊藤美喜が語っている。宗福寺は長崎市鍛冶屋町の崇福寺が正しく、わが国最初の黄檗宗の寺院で、寛永六年(一六二九)に開山以来、唐僧が渡来、住職をしていたが、天明四年からは邦人僧にかわっている。天保八年から天保十二年の間に在職した住職は三十代白峰、三十一代宝憧禅師であるが、崇福寺には大塩一行が逃避したというような記録はなにもない。『史談会速記録』では大塩父子らは崇福寺出入の清国人周アイテイとも親しくなって、周の計らいで清国福建省黄檗山へ渡航し、大塩父子は更に欧洲ヘ、秋篠等三人は長崎へ帰朝したという秋篠の伝承は正に一大ロマンであるが、事実関係は確認出来ない。
(註)
(5) 熊本県天草郡苓北町『苓北町史』上巻三七七頁
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