Я[大塩の乱 資料館]Я
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大塩の乱関係論文集目次


「秋 篠 昭 足 の 追 跡
―大塩平八郎天草逃避説を洗う―」

その9

井形 正寿

『大塩研究 第27号』1989.11より転載

◇禁転載◇

四等編修官奥並継のこと

 秋篠昭足墓の碑文に「前四等編修官正七位奥 並継撰并書」とある。明治十年大政官の下に修史館が置かれ、一等から四等の編修官がおり、四等編修官は年俸七百円、同十三年一月から年俸千円の奏任官となっている。修史館はもともと国史編纂所として明治二年四月に修史総裁三條実美が任命せられただけで開庁せず、明治八年四月修史局として正式に発足し、明治十年一月に修史館に改組している。明治十四年十二月に職制を改正して総裁三条実美(太政大臣兼任)編修長官重野安繹、監事三浦安、副監事巌谷修、一等編修官長松幹、二等同久米邦武、三等同藤野正啓、伊地馨、四等同星野恒となっている。

 明治十九年一月九日修史館は廃止されて内閣に臨時修史局が設置された。臨時修史局の編修長(奏任)は引続き重野が重任し、編修官(奏任)四人、書記(判任)三十人で構成されている。明治二十一年十月この臨時修史局は廃止され、帝国大学編年史編纂掛に事務は引継されている。四等編修官は明治十年一月改組の修史館から明治十九年一月に同局が廃止せられるまで確かに存在している。私の調査では官員録の記録などから四等編修官奥並継を確認することは出来なかったが、奥 並継について大植四郎編集『明治過去帳』(物故人名辞典)に次のとおり記載されている。

とあるところからすれば、修史局が廃止される直前に任官されたということのようである。また大阪市立中央図書館蔵、山本慶造版『明治官員録』(明治十四年版)の「開拓吏の部」に一等属 下等 オオイタ 奥 並継とあることは『明治過去帳』の記載と符合する。その上、秋篠昭足墓の碑文の終りの方に「明治壬申余在熊本鎮台」とあるところの「余」は奥 並継を指すものであるが『明治過去帳』に奥は明治五年に陸軍省八等出仕、七年頃七等出仕となって熊本鎮台付となったあることとほぼ合致する。

 戸水信義が口述した『史談会速記録』のなかで秋篠の「碑文は重野先生が書きました」とある重野先生は重野安繹であるとすれば、重野安繹は明治八年四月修史局開局以来、修史局副長、編修長官、臨時修史局編修長として明治二十一年十月の廃局まで在任していたから奥が『明治過去帳』のとおり明治十七年七月十日に四等編修官に任ぜられていたのであれば、直属の上司ということとなる。重野は元老院議官を経て帝国大学教授となり、その学風は考証的で史科に重きを置き、児島高徳の存在或は楠木正成の桜井駅訣別などの史話を否定したので世間から「抹殺博士」と呼ばれていた位であるから、秋篠の碑文に対し、重野が筆を執ったとしても、いささか重野安繹書とすることに本人自身に抵抗があったのではなかろうか。


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「秋篠昭足の追跡」/目次/その8/その10

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