その9
井形正寿
1989.3『大塩研究 第25号』より転載
大塩の決起趣意書ともいうべきものは、檄文であり、そのなかで大塩自身が最も訴えたかったことは、檄文の最後の言葉
此度の一挙、当朝平将門、明智光秀、漢土の劉裕朱忠の謀反ニ類し候と申者も、是非有之道理ニ候得共、我等一同心中ニ天下国家を纂盗いたし候慾念より起し候事には更無之日月星辰の神鑑にある事にて、詰ル処 は湯、武、漢高祖、明太祖民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若し疑しく覚候はゝ、我等の所業終る処を爾等眼を開て看
と「血族の禍」をおかしてまで、これを宣明にし「大坂の奉行并諸役人とも万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし」「此度有志のものと申合、下民を悩し苦メ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長し居候大坂市中金持ちの丁人共を誅戮およひ可申候」とこの一揆の攻撃目標を名指し、天下国家の纂盗でないことを強調して「都て中興 神武帝御政道の通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民いつ迄も、天恩難有存、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し」と檄文のなかで大塩は言い切ったことは、この一揆に大いなる成算を持ち、社会に大変革が起ることを秘かに期待していたはずである。だから一揆の結末を見届けるための初めからの予定の行動か。或は一揆が思わぬ不首尾に終ったことから、何等かの次の行動に移るためか。どちらにしても、それがために格好の隠れ家として美吉屋五郎兵衛方を選んだはずだ。その上、僧形姿に変身し、死の最後までこの往来手形を所持して、美吉屋方からの脱出の機会を窺っていたのではなかろうか。
【美吉屋の裏側に今も残る地下の背割水道 写真 略】
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