その8
井形正寿
1989.3『大塩研究 第25号』より転載
大塩平八郎父子が美吉屋方に潜入した時の状況がさきに(三)の項で書いたが、僧形姿の大塩父子が四十日近く潜伏の末、天保八年三月二十七日早朝大坂城代土井大炊頭の差向けた捕手の一行に囲まれ自殺した。その焼け跡の死体の懐中に往来手形が残されていた。手形には天龍寺の僧雷門、観永という二名の寺憎の名前が書かれ、平八郎は雷門、格之助は観永にあたる*26ということが従来の定説のようだ。また一説に天龍寺は天龍寺でも一向宗の天龍寺だとする説もある。天龍寺といえば、京都・嵯峨野の天龍寺が有名であるが、これは臨済宗天龍寺派本山である。
ところがもう一説に『大坂城代土井大炊頭より御用番へ届出た書付*27』のなかに「大塩平八郎父子乱妨之段剃髪致し隠れ居節所持之往来切手写」として次のような往来手形が記述されている。
濃州中嶋郡 堀津村 百姓彦六忰 平八郎事 釈 雷 黙 濃州中島郡 一向宗伝龍寺 弟子 格之助事 堪 永
この往来手形に堪永は一向宗伝龍寺の弟子とある。この濃州中島郡堀津(ほりつ)村は現在の岐阜県羽島市堀津町のことであり、同町一七〇七番地に真宗大谷派の伝流寺が今もある。伝流寺を伝龍寺と間違がったのか、或はもじったのではないか。何れにしても手形を出した寺が、伝流寺が伝龍寺になり、伝龍寺が天龍寺になったとしても、発行したことが事実であれば、吟味や処罰があったはずだが、そのような記録がないところからすれば、寺には直接関係なく、何者かの手によって偽造されたのではなかろうか。それを敷衍するかのように天保八年三月二十八日に『大坂御代官根本善左衛門江戸役所へ差越候届書』*28に
大塩平八郎自殺仕候儀昨廿七日以早便申上候処、猶及 承候趣左ニ奉申上候
の書出にはじまって
右両人(大塩父子)死骸烟ニ燻面体聢と相分兼候得共、最初(内山)彦次郎呼出候節答候声平八郎ニ相違無之、殊ニ父子之脇差何れも見覚有之、其上面部蛤(恰)好、平八郎、格之助死骸ニ相違無之候、且右死骸下似せ往来手形一通有之候由、本文往来手形は焼失不致、此儀は日数を経、諸向手配馳(弛)ミ候節ニ至り候ハハ他国へ逃去可申巧ニて拵置候ニ相見候由
とあるところからすれば、寺から正規に出された往来手形でなく、にせ手形ということのようだ。この手形について幕府評定所のもう一つの記録として、美吉屋五郎兵衛夫婦の吟味伺書のなかに
死骸之様子平八郎父子ニ無相違趣ニ而、右両人死骸傍ニ落散有之候平八郎自筆ニ而認候似往来手形弐通、右奉行(町奉行)差越候儀ニ有之候*29
とあって、大塩平八郎自筆のにせ往来手形の存在を評定所の公文書のなかで明らかに肯定している。
この手形の日付が一揆の前年、天保七年につくられたものであるという一説*30があり、大塩平八郎の挙兵の決心は前年秋だというのが定説のようであるから、この往来手形はその前後につくられたとみても不思議ではない。しかしさきの大坂鈴木町代官根本善左衛門の江戸役所への届書のように「日数を経、諸向手配弛ミ候節ニ至り候ハハ他国へ迯去可申」と逃亡に備えての精巧なにせ手形が準備されていたというのは少し酷な見方のようだ。
[注]
*26 *1の『大塩平八郎伝』三七六頁及び*12の『塩逆述』八巻下の四六丁
*27 *3の『百姓一揆史料集成』第十四巻三〇九頁
*28 *3の『百姓一揆史料集成』第十四巻三一三頁〜三一四
頁
*29 *5の『大塩平八郎一件書留』一三九頁
*30 *20の『大坂逆騒実誌』のなかに「往来手形其侭焼けす有りせは取出し見るに天龍寺という寺より出て去申年の年号月日にて云々」とあり、去申年は天保七年(申年)のことを指す。
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