井形正寿
2003.2『大塩研究 第48号』より転載
明治四十年大阪陽明学会設立以来、学会に対し「陽に致良知をを標榜して、陰に社会主義を宣伝するに非ずや」との誹謗中傷がなされていたことが『陽明』誌上で、たびたび取り上げられている。石崎東国が東京にいた時、社会主義者と親交があつたが、志を移さなかったとしているが『陽明』六号(明治四十三年十二月号)で、獄中の幸徳秋水(伝次郎)から友人堺利彦宛に送られた書翰末尾の、獄中吟を誌上で紹介したりしている。
この年、幸徳秋水らの社会主義者が多数逮捕された大逆事件の前後から大阪陽明学会への誹謗中傷が強まって来たことを『陽明』誌上から探って見ることとする。
『陽明』四号(明治四十年十月号)に竹公羽なる人物が「誤解されんとする陽明学」と題して次のような弁解を載せている。
朱子の道徳を説くは客観的にして王子の道徳説は主観的なり、主観的なるが故に直情径行、往々にして世の誤解を招くこと多し
近時社会主義なるものあり世の物議となる、彼等は多く個人主義を唱へて国家の観念を危からしめんとしつゝあり、而して我が王学も其の道徳説が主観的に傾き往々にして個人主義に発露す、之れ世の誤解を招く処にして、吾徒が亦た社会主義の徒と殆ど同様の誤解を招きつゝある所以なるが如し、尚ほ吾人が多く中江藤樹を語らずして大塩中斎を語るも亦た世の疑ひを招く一因なるべし、然かれども吾人の中斎を語らんと欲するは、彼の大阪焼討事件を語らんと欲するにあらずして、当地の偉人として彼れの学を喜ぶものなり、而して其の人物は未だ記憶に存せるの人多きが故に興味をして益々多からしむ、而かも猶ほ吾人が中斎を語るが故に吾人の思想が危険なりと云はゞ、終に夫れ王安石の文章は唱ふべからざるもの乎彼の立論宛然たる社会主義なり
然かりと雖も王学が世の圧迫を受けつゝあるは今日に始まりしにあらず、朱子の時なほ偽学を以て陰に陽に社会の迫害を受けたるが如きは素より、日本に於ても亦た同様の意味に於て其の災厄に遇ひしもの多し、特に林氏朱子派を以て官学に立てるの故を以て、陽明学は始めより林家の猜疑を受け、寛政以後益々其の抑圧甚だしく、官府にあるもの公然王学を唱ふる事能はざるのみならず、甚だしきに至りては王学を以て直に謀叛の学と為すに至れり、何んぞ其の誣ゆるの甚だしきや。爾来朱学は官府に依りて唱道せられ、王学は民間に依りて唱へられたり、其処に於てか自から官民其の別を為し、陽明学は殆ど平民主義の如くなりて今日に及べり、
而して世は明治となりて学問の主義は全く解放せられ、二百年間圧迫せられたる我王学は此処に其の驥足を伸さんとして又た以後の社会主義と倶に同一視せられんとしつゝあり、世間斯の如く視 るのみならず、学者自身も斯く嫌疑を受けつゝあるを恐れて、成るべく世の視聴を避けんとしつゝあるが如きは、真に王学の為め嘆ずべきの極と云ふべし
と以下綿綿と書かれているが、省略する。
『陽明』五号(明治四十三年十一月号)の編集後
記ともいうべき「烟影録」のなかで次のような記事
がある。
大阪朝日九月廿九日号天声人語曰く社会主義の取締もいよいよへンになつて来た当市の陽明学会に対して何にか言て来たのみか、会員の家宅捜索みたやうなことまでやつたといふ、何の真似か分らない、大方大塩平八郎でも飛び出しちやといふのだらうが、賢慮の程誠に恐れ入つたものだ▲大阪新報十月十日号噂のまゝ曰く大阪の社会主義取締りも用意の周到はさることながら少しく神経過敏ではあるまいか危険思想を以て居るか居らぬか位其人物の平生て大概分りさうなものに此頃は陽明学者までが危険視されて居るさうだ。古学といひ折衷学といひ将た朱子学、陽明学と岐れて居ても何れも儒教の一流派で忠と孝とを本とするものである、忠孝を本とするものを危険とするのは何 とかいう小冊子に大塩平八郎を、社会主義の実行者である抔と途方もないウソを書てあるのを見て速了したのであらうとの風説がある、大阪の陽明学会の連中には大分迷惑かゝつて居る者もある、警察官も伝習録の一冊位は読んで見るがよからう▲十月八日朝日新聞社説危険思想取締に就ての論に曰く内務文部両省に於ては極力危険思想の取締に従事し或は社会主義の傾向を有する出版物の発売禁止となり、各府県知事の取締訓諭となり、果ては陽明学を修めつゝある者まで社会主義者類似として目するに至れるは没常識も亦極まれるに非らずや。
この一文から、台頭した社会主義と大阪陽明学会
が同列に置かれて危険視されていたことが、よくわかる。
『陽明』八五号(大正八年二月号)では、石崎東
国が「陽明主義を誣ゆるものに答ふるの書」と題し
て、次のような長文をもって、陽明主義擁護の弁論
を展開している。
Copyright Masatoshi Igata 井形正寿 reserved