井形正寿
2003.2『大塩研究 第48号』より転載
石崎東国の一生のなかで、一番活気に溢れていた明治末から、大正の時代を取り上げてみたい。石崎が創立当初から関与していた大阪陽明学会・財団法人洗心洞文庫などの機関誌『陽明』後の『陽明主義』、本人の著述、日刊新聞などから石崎の略歴の続きを再現することとする。引用した出典は『 』のなかで明らかにした。
なお、『陽明』『陽明主義』は各地の大学図書館などでも、欠号で全巻収蔵されていないので、管見のそしりを受けるかも知れないがご寛容頂きたい。
(石崎東国と陽明学会)
○明治四十年七月五日大阪陽明学会創立
―明治四十三牢七月『陽明』六号掲載―
「我陽明学会は明治四十年七月五日の誕生也」
とあり、続いて
「我陽明学派は何時でも時代思想の先馳者也」とある。
○大阪陽明学会会則
―大正七年九月『陽明』八〇号掲載―
第一條 本会は陽明良知の学を講明し以て社会人道を振作せんことを目的とす
第二條 本会は毎月一回定例集会を開き斯学の研究及び同人思想上の交換を図る事
第三條 本会会員は漸次左の事業を為す
陽明学の伝道講演△大塩先生事業の宣揚△洗心洞文庫の設立
第四條 本会会員には機関雑誌「陽明」を頒布す、会員を分て左の四種とす、会員は所定の会費を納むべし
維持会員、会費毎月一円以上を納むるもの△賛助員 学徳名望あるものを推選す△普通会員 会費毎月三十銭を納む△地方会員 雑誌購読者を地方会員とす
第五條 本会に評議員若干名、主幹一名、幹事若干名を置く、評議員は維持会員を以て之に充つ、幹事は評議員と協議の上一切の会務を所理す
普通会費は発会当時、毎月五十銭としていたものが三十銭になつているなど、若干会則は修正されたのではなかろうか。
○大阪陽明学会会員名簿
―明治四十四年一月『陽明』六号掲載―
明治四十三年十一月現在、五八名。
大阪時事新報記者石崎酉之允(東国)、同吉田程二、同井上昌次、同森川俊次、同永易三千彦、大阪毎日新聞記者橋詰良一*1、大阪朝日新聞記者若林 蓊、弁護士中井隼太、同吉田音松*2、同全田達次朗、同国吉亮之輔、同内藤正剛*3、同中川太郎、同左近司六蔵、同夏井保四郎、
このほか実業家・校長・医師・住職・画家・軍人・官吏・農商業のほか森下仁丹・森下博、大阪府警察部本部長池上四郎(後の大阪市長)の名前が見える。『陽明』の発行人・大阪市東区餌差町三五(後には東成郡天王寺村二〇八六)石崎酉之允、編輯人・吉田程二
発行人・編輯人の両名はともに大阪時事新報記者の肩書がついている。後年の「陽明」では編輯兼発行人は石崎酉之允一人となっている。
○大阪陽明学会の活動
「陽明」の発行は、明治四十四年一月までに七号、大正七年十二月までに八二号が出されているので、大正になってからは、年十冊から十二冊ぐらいの刊行である。
定例講演会は毎月第二日曜午後二時、会場・西区土佐堀衛生会館、講師高瀬武次郎*4・倉田績*5、講演会のあと会員の所感談を発表していたようだ。後に会場は第三日曜日成正寺に変更され、課外として洗心洞箚記を主幹となった石崎東国が講義している。
管理人註
*1 橋詰良一(1871-1934) 大阪毎日新聞社の事業部長などを歴任、「橋詰せみ朗」で宝塚少女歌劇団などの脚本を書いた。
*2 吉田音松(1876-1951) 元大阪弁護士会会長
*3 内藤正剛(1883-1959) 岡山県出身。大阪市会・府会の議員、衆議院議員等歴任
*4 高瀬武次郎 (1868−1950) 香川県出身。関西の陽明学研究の第一人者。京都帝国大教授や立命館大教授などを歴任、著書『日本之陽明学』『陽明学新論』など。中江藤樹記念館隣接の藤樹神社創立にも尽力。
*5 倉田績(くらた いさお、1827-1919) 伊勢出身。漢学者。佐藤一斎に学ぶ。伊勢神宮祝官・竈山神社宮掌に任じられる。
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