Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.26

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石崎東国の足跡を追う

その4

井形正寿

2003.2『大塩研究 第48号』より転載


◇禁転載◇

石崎東国の活躍時代(1)

 石崎東国の一生のなかで、一番活気に溢れていた明治末から、大正の時代を取り上げてみたい。石崎が創立当初から関与していた大阪陽明学会・財団法人洗心洞文庫などの機関誌『陽明』後の『陽明主義』、本人の著述、日刊新聞などから石崎の略歴の続きを再現することとする。引用した出典は『 』のなかで明らかにした。

 なお、『陽明』『陽明主義』は各地の大学図書館などでも、欠号で全巻収蔵されていないので、管見のそしりを受けるかも知れないがご寛容頂きたい。

 とあり、続いて

 「我陽明学派は何時でも時代思想の先馳者也」とある。

 普通会費は発会当時、毎月五十銭としていたものが三十銭になつているなど、若干会則は修正されたのではなかろうか。

 このほか実業家・校長・医師・住職・画家・軍人・官吏・農商業のほか森下仁丹・森下博、大阪府警察部本部長池上四郎(後の大阪市長)の名前が見える。『陽明』の発行人・大阪市東区餌差町三五(後には東成郡天王寺村二〇八六)石崎酉之允、編輯人・吉田程二

 発行人・編輯人の両名はともに大阪時事新報記者の肩書がついている。後年の「陽明」では編輯兼発行人は石崎酉之允一人となっている。

 ○大阪陽明学会の活動

 「陽明」の発行は、明治四十四年一月までに七号、大正七年十二月までに八二号が出されているので、大正になってからは、年十冊から十二冊ぐらいの刊行である。

 定例講演会は毎月第二日曜午後二時、会場・西区土佐堀衛生会館、講師高瀬武次郎*4・倉田績*5、講演会のあと会員の所感談を発表していたようだ。後に会場は第三日曜日成正寺に変更され、課外として洗心洞箚記を主幹となった石崎東国が講義している。


管理人註
*1 橋詰良一(1871-1934) 大阪毎日新聞社の事業部長などを歴任、「橋詰せみ朗」で宝塚少女歌劇団などの脚本を書いた。
*2 吉田音松(1876-1951) 元大阪弁護士会会長
*3 内藤正剛(1883-1959) 岡山県出身。大阪市会・府会の議員、衆議院議員等歴任
*4 高瀬武次郎 (1868−1950) 香川県出身。関西の陽明学研究の第一人者。京都帝国大教授や立命館大教授などを歴任、著書『日本之陽明学』『陽明学新論』など。中江藤樹記念館隣接の藤樹神社創立にも尽力。
*5 倉田績(くらた いさお、1827-1919)  伊勢出身。漢学者。佐藤一斎に学ぶ。伊勢神宮祝官・竈山神社宮掌に任じられる。


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