Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.25

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大塩の乱関係論文集目次


石崎東国の足跡を追う

その3

井形正寿

2003.2『大塩研究 第48号』より転載


◇禁転載◇

石崎の生立ちから陽明学会創立(2)

●二十六歳 (明治三十三年頃か)香川新聞主筆として讃岐・高松に赴任。この地の人は「予の放胆なる性を憐れむ人も少くなかった。同時に予の最初の水戸学は再び記憶を新たにした。此間に東京には友人西川光三郎、片山潜等の社会主義が生れたけれども、予の志を移さなかつた。予は束京を出る前に東亜同文会の設立に与つた*1如く、東方問題乃至支那問題の第一人者たらんとして、功名茲にありと信じて居た」

 しかし「社会問題は予の頭にはトテモ入る余地がなかった」と思想の変遷を綴り、弘法大師発祥地の真言より日蓮の法華に帰依し、さらに「坊主より侠客にして、詩人にして勤王家たる日柳燕石に傾倒し、其系統から再び洗心洞箚記を読み、また高瀬武次郎の日本の陽明学も読んだ」と当地での勉学振りを記しているが、そのあと「時、恰かも北清拳匪の乱 (明治三十三年・北清事変)が起るに至つては、深くそんな研究をする暇もなく、 功名心は早くも北清に飛んで、遂にその方へ赴いてしまった」と述懐している。

●二十九歳(明治三十六年ごろ) 来阪「再び大阪に来た。大阪と我輩は決して調和の地ではないが、大塩の為した地であることは忘れない」と書出している。来阪の年も年齢も書かれていない。「恰も第五回の博覧会が開設された」とあるので、明治三十六年大阪・天王寺公園で開催された第五回内国勧業博覧会開催の前後に来阪したのであれば、年齢は二九歳。石崎は続けて次のようなことを書いている「市中は明らかに資本家と労働者に区画されて居る地である。予の思想は東方問題から漸次に社会問題に移って来た。併し、水戸学と社会問題とは、なお幾分の距離がある。暫はこれが調和を試みた。そして社会問題は、物質のみで解けるものではないと観じた時宗教が浮かんだ。宗教はまた高松にあつた時の日蓮が首を出した」「それが元で大塩と日蓮を研究した。陽明と日蓮との事業を見た。水戸学と陽明の吻合を見た。会心の学問が初めて発見された。これを研究するに従つて愈々光明、一点の不調和なる点がない。天地万物と一体なる良知の前には何物も徹底せざるものの無きことを発見した。同時に道義というものの外に持て囃やされる功利なるものは、日々予の脳裡から撃退されて来た。少なくも種々の習慣に囚はれて居た我輩は、真に独立の思想と自由の精神を回復した。従つて如何なる境遇にも不安なく、如何なる職業にも満足を感ずるやうになつた。是れ偏に陽明学の御蔭といはねばならぬ」と結んでいる。

●明治四十五年・三十八歳茲年予は三十八」「この間、半生功名に走って何等事功の遂げたるもの無きを耻づる次第であるが」「得道なほ前途を期すべきも」「遅しと雖も而もこの安心立命の地に到着したるを喜ぶものである」

 と六月十一日付の手記は終わっている。

 石崎東国は、これより五年前の明治四十年から、大阪陽明学会に関与して、活躍されているが、手記にはこの点は具体的に触れていない、しかし、なにか気概が伝わって来るようだ。

 ここで思い出すのは、陽明学が明治の中ほどから大正にかけて盛んになった現象を、陽明学者岡田武彦氏の著書『王陽明と現代』のなかで「明治・大正の陽明学運動」として、次のように述べていられる。

 終りの一節は、石崎東国が雑誌発行に心血をそそがれていたことを考える時、まさに至言といえよう。


 Copyright Masatoshi Igata 井形正寿 reserved


管理人註
*1 財団法人霞山会の前身である「東亜同文会」(会長 近衞篤麿公爵・貴族院議長)は、明治31(1898)年11月に東亜会と同文会が合体し、「東亜の保全と輯協」を目的として東京・赤坂溜池に発足した。
*2 ひがし たくしゃ、1832-1891、岩国出身の陽明学者。


予の王学に入りし経路


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