井形正寿
2003.2『大塩研究 第48号』より転載
○石崎東国、陽明学会発足に言及
―明治四十三年十月『陽明』四号掲載―
明治四十一年秋、某所で開催された学術講演会に於て、石崎東国は前年創立の大阪陽明学会について「自分の関係した学会を紹介」すると発言して、学会設立の趣旨、抱負等に言及している。講演「洗心洞学会を紹介する」は、編輯人吉田程二が記事にしたものであろうかハ、原文は読みづらいので、石崎の言葉を少し簡略化した。講演要旨は次のとおりである。
余は本日の講演会に当り、何等かの意見を述べて諸君の批評を乞はん考えなり。取敢えず余の関係せる洗心洞学会を紹介せん。
余が洗心洞の伝道に、かゝる会合まで利用して紹介を試むるは、何れも熱心の余に出でたることを諒しあらんことを乞う。
今より七十年前、大塩中斎なるもの此の大阪にあり、身は当時一与力なる軽き職にありたるに拘わらず人格の標置頗る高く中江、熊沢の流を汲んで陽明を講じ、隠居後は専ら洗心洞なる私塾に諸生を養成せられたり。吾洗心洞は即ち此名を採りたるものにして、其主とする所は王学の道場に外ならざるものなり。
此の学名を唱道したるは近江聖人即ち中江藤樹先生なりとす。爾来幾多の変遷ありしと雖も、要するに維新当時尤も盛にして、明治以後漸次衰退せり即ち多年の薀蓄一時に勃発したるとき王業維新を成功せしめた後、物質的文明の輸入科学の普及等に依り一般儒学と同一に排斥せらるゝに至りたるものなり。然るに最近に至り、物質的文明の余弊漸く耐へざるものあるに依りて、心漸く王学に向うもの多きを致し、東京には王学会なるもの起り、大阪に洗心洞学会出づる時勢の然らしむる所とはいえ、畢竟、宋学の余弊を救え得たる王学は、必らずや又物質的文明の余弊即ち今日の腐敗せる社会人道をも救い得べきものと信ぜられてきた。
今や吾が洗心洞は実に此の趣旨に依つて起てられたるなり。社会は物質的文明の渦中に自由競争しつゝあるなり。此の自由競争は何時まで継続すべきかは別問題として兎に角、此の結果は優勝劣敗なり。今日の人間は皆科学という大鉄棒を持てる妖魔の為め追廻はされて居るなり。かかる忙がしい世の中なれば、人道なども研究して居る暇がないのも尤である。
現在の社会の大多数は全く此人道に飢たるなり。さればこそ最高の議政府たる代議士は金で投票を買ひ。議院に於ては一問題起る毎に金で意見を売る。県会然かり、市町村会然かり、新聞記者は筆を売り、技師は鑑定を偽る。賄賂、恐嚇、窃盗、強盗、強姦、姦姪、乞食、不幸にして社会人道の欠陥は随所に曝露せるの事実を有せるなり。以て如何に社会に人道の飢へたるかを知るべし。此は勿論社会組織の不完全なる与つて力あるべし、されど、人道を曲げて不完全なる社会を永続する要なし。人道起すべし、社会正すべし、自ら顧みず罪を社会に嫁せんは愚なり、此の人道を正さんものは王学なり。
王学は実に天地万物を以て一体とし、一体の良知を啓発するを以て至極とし、知行合一を以て学問の本領と為すにあり。故に複雑なる社会に尤も簡単なるものなり。暗黒なる人生は光明あるものとなり、汚濁の世を清めるものなり。王学者は良知の命ずるところに依つて讒誣、迫害に動ぜず屈せず、社会の腐敗を正さずんば止まざるの元気ありき。彼の治国平天下の伝道者たる蕃山を見ずや、明石に郡山に古河に禁錮されて伝道の自由を束縛されたれども「我も亦一人の天民なり、天の霊あり、いはぎるは罪あることなり」と称して、なほ伝道に勤めたり。
救民の献策行はれず、義旗を挙げたるは大塩中斎にあらずや。三輪執斎は蕃山の風を聴て起り、春日潜庵は中斎の風聞て奮起す。其他、時の腐敗を慨するの志士、救世の事業に参加し、事実に於て王業維新の事業も斯学普及の致す所、王学の沿革斯くの如し。諸君、予をして大言壮語するものとする勿れ。
と、石崎は創立間もない学会について熱弁を振っている。まさに獅々吼の姿が目のあたりに浮ぶ。彼はこの会場で洗心洞学会と言っているようだが、後においても陽明学会と洗心洞学会と混用していることが多い。
○石崎東国、陽明学会創立の唱道
石崎東国は、大阪陽明学会の会則上の役職は創立当初は幹事。その後主幹になっているが、学会創立に石崎が関与していたことを『陽明』六号で天魔禅窟が「東西の陽明学派」のなかで次のように述べている。
予の見る所に依れば、東京の陽明学と大阪の陽明学派とは妙な対照と相成申候。そは東京の陽明学は佐藤系に属し、大阪のは大塩系に属することに御座候。(中略)
東京陽明学会は恰かも渋沢栄一君などが盛に論語学を吹聴したる、所謂漢学流行の際に乗じて東正堂氏等王学者の創始により現われたるものが、大阪のは、これに反し日露戦後、戦勝熱のため甚だしく社会面に欠陥を生じたるに対し新時代思想を喚起すべく、恰も洗心洞に私淑せる東国(石崎東国)、泗鴎(吉田泗鴎)諸兄に依て唱道せられ、初めて斯学の泰斗高瀬博士、無隠居土倉田先生等を招聘されたるに始まる等、其の設立の動機斯くの如く異るを発見いたし候。
とあるところからすれば、石崎東国は大阪陽明学会の創設を唱道・関与していたことを示唆している。なお、吉田晒鶴は『陽明』四号で「予の王学に入りし経路」を発表しているが、本名などわからな。
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