井形正寿
2003.3『大塩研究 第48号』より転載
大阪陽明学会創立十一年目の大正七年九月、財団法人洗心洞文庫として生まれ変った。この時石崎東国は『陽明』八一号誌上で「洗心洞文庫成る」と喜びの報告をしている。全文採録をしたいが、割愛して要点の箇所のみを再現してみよう。
○財団法人洗心洞文庫成る―大正七年九月十九日
△「財団法人洗心洞文庫設立の由来」
発展的には洗心洞の再興、大塩哲学即天満の我儘学問といはれたそれの再生であると観て差支がない、そして、此の計画が明治四十年六月(筆者注・『陽明』六号では同年七月五日)当時の洗心洞学会(今の陽明学会)と共に生れた事実である。併しながら、今迄は文庫として一つの空名に過ぎずして何等具体的設備を持つたものでなく、名義ばかりが、此の十年間陽明学会の一隅に寄食中のものであつたといふに過ぎない。それが兎に角に今茲に洗心洞文庫財団として発表し得るに至ったのは時勢の進運にも依らうが、会員諸氏の不断の努力の実現として、吾等は此れを記念せざるを得ない。
△「懐徳堂と洗心洞」
我が洗心洞学会は明治四十年に吾等青年市民の時代反抗的、末法救済の為に設立したものであつて、一時、陽明宗の学風は関西学壇を風靡し、烈々火の玉の如き熱誠は社会の何物をも焼尽さん勢であつたが、其頃危険思想の取締といふことが我が学会にまで累を成して、青年教育家実業家などを多数会員に有して居た本会も、諸種の理由で大半会員の脱退を見て、殆ど火の消たやうな状態となつた。これも時世時節なれば如何とも致し方がない。此の時中井竹山の懐徳堂記念会といふのが中老市民に依て発表された。竹山は町人教育には慥に功労の有つた人であろう。洗心洞などからは二、三代も古く設立されて維新前までも継続して居た、若し再興すべくは洗心洞などよりは早く再興さるべき筈であつたのだ、それが此の陽明学会の嫌忌に衰へた其後に懐徳記念会の起れるなどが深く意味あるらしくも見られた、而してそれは盛大に行はれ、記念講堂は新築される、遂に後の烏が先になつた。
△「一事務所二学会」
此に学会に取つて面白い挿話がある、明治四十五年一月、中の島公園の豊太閤銅像下に洒落たる二階建の新築が出来た、それは岩本氏寄附の中之島公会堂の建築事務所である。其の頃私の関係して居た新聞の一記者は、私に公会堂常務理事栗山寛一氏の伝言を齎した、曰く陽明学会は今後、此の楼上に開会するやうにしてはどうかと、私は直に一記者に答えた、学会の講莚は成正寺にて足る、願くは公会堂事業終るの日、其の建物を吾が学会に与へよと告げ来れ、余は今より予約せんと、彼が之を栗山氏に告げしや如何を私は知らない、後、栗山氏に会ふた時、氏は私に此の建物は今懐徳堂が譲渡を懇望し、頻に運動中であるやに語られた時、余は両者の意想が偶然一致したことを心中に笑たが、敢て之と競争しやうとはせなかつた。何となれば衰微した我が学会は到底、彼の金持と学者を集めて勢力を為した懐徳堂の敵でないと信じたからであり、又彼れにゆくが順序であると信じたからである、併し私の心を知れる一記者は一日窃かに陽明学会財団案を作て余の手許に置て余の
心を慰めた。
△ 「建物の無償譲渡」
懐徳堂はかうして公会堂事務所を得んとした、併し、事務所の事業は公会堂の建築の遷延と共に中々御用済にはならぬ。そして茲に、記念会事務所を設置して事業を着手した懐徳堂は、相当の人気と案外の寄附が集まったので、遂に公会堂事務所を見捨てて彼の記念会堂を本町博物館の一隅に新築するに至つた。されば、私はそれを聞たとき如何に私が競争心を離れて、今度こそは、是非洗心洞に譲渡を乞ふべき機会が来たなと、案外の微笑に心中の喜びを禁じ得なかった。公会堂は晩くも本年中に落成すると聞いて、吾が畏敬せる森下、中井両氏の譲渡請願は四月十日に公会堂財団に向けて提出された。そして四月二十三日の公会堂理事会は満場一致を以て事務所建物は陽明学会に無償譲渡の承認を与えた。実をいへば公会堂の理事者は栗山氏初め大半本会の首脳会員であつたことと栗山氏の多大なる尽力と、理事諸君の深甚の同情に成つたことは勿論である。かうして事務所は遂に洗心洞の希望を達したのであつた。
△ 「予定の財団組織」
洗心洞の事業は此の建物の譲渡を得るに及んで確実に立脚地を得た訳である。併しながら此の建物を得たことのみを以て安全と満足はされない。進で之を財団法人組織とするにあらざれば永遠の事業と称するを得ない。五月十一日設立者会は大阪倶楽部に開かれた、そこで一切万事は定められて本山毎日社長、山口市会議長を初め森下博、栗山寛一、中井隼太の五氏を推して設立者と定め財団法人申請書は五月廿八日府庁に提出された。
△ 「米騒動の大記念碑」
六日七月八月に至て例の米騒動は勃発した。大塩先生の名は新聞に雑誌に表彰的に回想された。私は却て之に甚だしき苦痛を感じた。見よ、帝劇十月興業の大塩騒動は不許可と成つたといふことではないか。此の時帝劇よりもヨリ重大事業たる洗心洞文庫。ヨリ根本的なる大塩哲学の大道場に何事もないであろうか。是は寺内内閣に於て極めて疑問でなければならぬ、何となれば此の時、此の事業の計画は天保義人の記念であつて、而して実は米騒動の一大記念事業であらねばならぬ。是れは吾等よりいへばかくあるべき筈で、極めて有意義のもので、其始めは偶然の計画にせよ、今や義人大塩先生の学問事業の最も活動せる生御魂として記念せざるべからざる場合であつて、それだけお上の許可は疑問とされた。私は到底此の許可を諦らめざるを得なく成つていた。而もそれが、寺内内閣辞表提出三日前の九月十九日を以て許可を得たことは、寺内内閣の末路に大塩先生の真人格を悟り得たかを、私共は此財団許可の一條と共に祝せざるを得ないのである。
△ 「何を以て天下に報せん」
正直に云へば私は初め懐徳堂と競争的に此建物に目を附けた。其の後に多少の不安を禁じ得ないものがあつた。それは義人の記念事業を此の古建物に依るといふことの不安である。それで世の或ものの批難は十分の覚悟を持って、初て之を森下氏に問ふた。氏は私の此の説には別の意義を以て之を解した、徳川時代、懐徳堂や、洗心洞は大阪の二大学問所なるべし、其の二つまで此の会堂より生るるは古建物徳たるもの大なりと謂ふべきである。畢竟は新講堂を要することいふまでもないが、吾等は先ず六甲山に一粒の種子を下す覚悟で初めねばならぬと、私は満足を感じた。去て本山松陰翁に計る、翁は非常の賛成を以て、此の事業の何故今日まで放棄したかを、責め且つ励まされた。私は大いに感激した。私は次に大朝主筆鳥居素川*1兄に問ふた。素川兄は言下に貴族的懐徳堂に対する平民的洗心洞、宜しく民本主義の大道場たれと喝破された。私は会心の微笑を禁じ得なかった。
温厚なる山口氏、篤学なる高瀬博士、侠骨却て牛後に隠るる中井兄、各の理由の下に義人大塩先生に共鳴せる諸兄は、共に予の古建物の杞憂を排して、却て此一事務所を中心とする大講堂及石造文庫の予定計画は成った。
併し中には吾、此の老書生自ら身の程を顧みず、紳士を集めて自家の道楽に供する白物と評する向もあるそうだが、陽明宗の行者未だ隠田の行者程に怪力乱神の魔力を持たない。只洗心洞の別当として、先生の学問事業を少しにても世に知らせたい心の外の何物もないことを告げて、設立者諸賢の労を謝し、併せて今後会員諸子の指導を願ふのみである。(十月五日夜記)
石崎東国の喜びが、この文章から脈々と伝わって来る。
管理人註
*1 鳥居素川(1867〜1928) 熊本出身。明治・大正期のジャーナリスト。1897年大阪朝日新聞社に入社。池辺三山のあと編集局長に就任。1918年に白虹事件で引責辞任。1919年大正日日新聞を創刊。
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