井形正寿
2003.2『大塩研究 第48号』より転載
この頃、大阪毎日新聞は財団法人洗心洞文庫設立の願出と、法人化に伴う活発な動きを次のように報道している。
大正七年六月二十六日付『毎日新聞』
○洗心洞文庫設立 事業は講演会開催其他
本山彦一、山口房五郎、森下博、栗山寛一、中井隼太の諸氏は講演会開催、図書出版、先哲事蹟調査及表彰等を為し国民道徳の向上を図る目的にて今回洗心洞文庫財団法人設立の件を府当局へ願出でたるが当局に於ても其目的事業を至当と認むるを以て不日許可する由尚同文庫基金は大阪陽明学会よりの三千円を始めとし各会員の寄付に依るものなりと
大正七年十月十一日付『毎日新聞』
○洗心洞文庫 大塩後索遺跡顕彰
大阪陽明学会にては我国における唯一の陽明学者たる故大塩後素の遺跡洗心洞文庫を再興と共に後素の遺業を顕彰する計画にて本年五月有志の斡旋により大阪市公会堂事務所を同会に寄贈して右文庫の建物に充つべく公会堂管理者と種々交渉の末先月十九日右建物を同学会に提供することとなり同時に財団法人組織に改め同会において之を維持経営すべく過般来本山理事長、山口、栗山、中井、森下、石崎諸氏屡々協議する所あり、本山氏は今後の維持法として同文庫を不燃性の建物と為すべきといひ森下博氏は中井竹山の遺跡たる懐徳堂に倣ひ広く諸生を引いて学問思想の教授を旨とせざるべからずとなすなど種々の議論も出でしが同会にても右の趣旨により同文庫を永久に且最も広く思想界の印象的たらしむべき方針の下に汎く後素の遺書、遺物等を蒐集し同文庫に収蔵すると共に時々学術的講演を催し陽明学派にのみ拘泥せず一般思想上に貢献する筈にて其方法等に就き目下研究中なりと尚前記公会堂より譲り受けたる建物の移転地についても目下選定中なるが洗心洞の
所在地はもと天満川崎町にて同町には多少の遺跡存し居れば同町造幣局内泉布観付近の帝室御料地を適当なる候補地と認め目下同土地の貸与方につき京都帝室林野局に向け出願中なりと
大正七年一二月二六日付『毎日新聞』
○洗心洞文庫開館式と陽明学会今後の事業
先般財団法人に改めたる大阪陽明学会の建設にかかる洗心洞文庫は曩に公会堂管理人より譲り受けたる中之島公会堂事務所敷地を今回市より二箇年間無償借受けを為すこととなれるより当分同場所を文庫に充て愈々新年匆々開館式を挙行の筈なるが今後の維持法その他に関しては近日中に本山彦一氏以下役員出席協議会を開くべく、又同文庫今後の計画としては開館と同時に大塩中斎の蔵書遺物を蒐集し従前の月次講の外新たに市民講座の一科を設けて月一回又は二回京大教授其他より学者を聘して都市改良に関する諸問題の講演を求むる筈にて目下夫々交渉中なりと
大正八年四月一一日付『毎日新聞』
○陽明学会講演
十一日午後七時中之島洗心洞文庫にて(会費十銭)大塩平八郎に就て(石崎東国氏)輓近の児童問題(竹村氏)
大正八年四月二一日付『毎日新聞』
○熊沢蕃山遺跡碑除幕式 播州明石大山寺境内に
於て
大阪陽明学会の手にて建設されたる播州明石太山寺境内熊沢蕃山息游軒*1遺跡碑除幕式は二十日正午挙行さる碑は京大高瀬文学博士の揮毫に係り裏面には
見る人の心からこそ山里の浮世の外の月は澄むらめ
の蕃山先生所感吟を刻せるもの森下博氏の手にて幕を除かれ太山寺僧侶の読経高瀬博士の孝経捧読本山彦一氏の式辞(栗山寛一氏代読)其他祝辞祝歌祝詩の朗読あり終つて昼餐後境内阿弥陀堂に於て高瀬博士の蕃山伝青木重斌氏の所感石崎酉之允氏の蕃山先生と現代思想等の講演あり散会したるは午後四時なりき
大正八年六月九日付『毎日新聞』
○洗心洞文庫の評議員招待会 大阪ホテルにて
洗心洞文庫理事長たる本社長本山彦一氏は八日午後七時より大阪ホテルに於て同文庫評議員招待会を開催せり
土井剛吉郎、尼崎伊三郎*2、江崎政忠、磯野良吉、玉手弘之、高木利太、野村徳七*3、大槻龍治*4
の諸氏其他を合せて十六名の評議員出席、デザート・コースに入るや本山理事長の挨拶、石崎主事の経過報告書の朗読あり之に対して江崎政忠氏、高瀬文学博士等の挨拶あつて九時頃散会せり
*1 熊沢蕃山 陽明学者。江戸時代初期の寛文9年(1669)頃、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預りとなり、太山寺に幽閉されていた。
*2 二代目尼崎伊三郎 1904年死亡した初代伊三郎のあとを継ぐ、朝鮮航路をはじめ各方面に海運業を発展させ、土地所有をに拡大した。大阪市会議員、貴族院議員も歴任。
*3 二代目野村徳七(1878〜1945) 初代野村徳七の長男。野村財閥の創始者。貴族院議員。京都・南禅寺近くに日本庭園を擁する碧雲荘を築造。
*4 大槻龍治 近鉄3代目社長(在任:1915〜1927)。1928死去。農商務省の官僚から、京都市助役、大阪税関長などを歴任。
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