井形正寿
2003.3『大塩研究 第48号』より転載
大正七年十月十一日に法人登記を完了した財団法人洗心洞文庫は、同年十二月事務所を旧中之島公会堂建築事務所へ移転した。
大正八年一月五日発行の機関誌は従来の『陽明』を『陽明主義』と改題した。号数は通算して八四号として刊行。
石崎東国はその『陽明主義』八四号で改題の意義を述べているが、その要点は次のとおりである。
是れまで 陽明」と云て居た本誌は今茲から[陽明主義」と改題した。どちらにしても、陽明 王子の宗旨学問を研究鼓吹する意味に於て同じやうなものであるが、併し本誌の改題は平生の陽明を更に今一歩進めて見たい計画に依て為されたものである。
然らばどう一歩を進めるといふのかとなれば同じ陽明学の宗旨を研究宣伝するにしても其の態度に依て表現される所も亦異るものである、佐藤一斎のやうな学究的研究もあり、大塩先生のやうな実践的研究もある、陽明主義が洗心洞から発刊するから何事も大塩主義でやるといふ意味ではないが、その研究は少くも学究的なるよりは深酷に行きたい、
大塩先生の陽明学を「洗心洞」に講した時、世の学者役人は之を「天満風の我儘学問」と呼んだ先生は朱学者の如く又古学者の如く総てに拘はれない、自由自在良知の発するに任せて思想化し時代化した、即ち工夫発明泉の如く湧出した、だから時の学者役人は之を素人学問といひ、或は我儘学問といつた、勿論悪評ではあるが、之が初めて先生の活きた所以である、括た働をした学問の異名としての「我儘学問」は吾等の命でなければならぬ、吾等は之を時代化する考案に於て陽明主義の名を得た、是れか陽明改題の第一義である、
有史以来未曾有の此の世界戦争の終りを告げてこれから新しき平和の世界に出る其人の如く古き衣を脱へて新らしき衣物を装ふことも一の記念であるが、吾等に在ては寧ろ戦陣に望む勇士の武装を意味するものである(十二月十二日)
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