Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱と西城罹災」(抄)
その3

池田晃淵

『徳川幕府時代史』 早稲田大学出版部 1904 収録

◇禁転載◇

第八章 修正時代
 大塩の乱と西城罹災 付家斉の薨去 (3)

管理人註
   

偖平八郎、退老の身乍ら、近畿の惨況見るに忍びず、是が救済の方を大阪 の豪民に試みしも容られず、依て子の格之助に托して書を奉行に上り、救 済を建議せしに、奉行跡部山城守、尤の事なれど、江戸へ伺の上ならでは 取計難しと有しかば、重て書を上りて、既に江戸府内に於ては、貧民の撫 育に勉めらるゝ一再に止らず、是れ将軍家の御膝元なるが故に、餓の惨 況台聴を驚さんを慮りてなるべし、然れ共、民は是国の本にして、同く天 下の宝たり、豈江戸内外を以て之を軽重するの理あらんや、且近畿は禁裏 御料のある所、此御料地に於て、既に飢民あるを見る、事天聴を驚すあら          いづれ ば、台聴を驚かすと孰与苟くも天聴に達し宸念を労し給はゝ、其責誰にか ある、此時に当り、諸公は平日の制條を墨守して、日を過すは、牧民の職 に於て耻る所なきか、宜しく先倉廩を開きて貧民を賑救し、然る後、状を 具して専恣犯則の罪を待は、所謂身を殺して仁をなす者、即ち其罪は罪に あらず、反て忠に、其徳は奉行の徳に非ず、幕下の尚徳たりとの意を以て 勧告せり、蓋し王守仁が唐の陸贄の挙に傚ひしを採れるならん、然るに山 城守、之を見ると、格之助に、其方が父は狂気せしと見えたりとて、其 書を返しける由、平八郎、聞より、鬱結の怒火一時に発し、さらば我れ先 身を殺して仁をなすべしとて、数代及び数十年間儲蓄せる所の器財書籍を 売払、其の代金を以て一時貧民に施与せしも、元より九牛の一毛なるを以 て、此上は大阪府内豪商らの蓄穀を奪ひ、之を貧民に施与せんと、密々同 志を糾合せしに、同組の同心平山助次郎及び近藤右衛門二人、平八郎将さ に明朝を以て発せんとするに及び、奉行跡部山城守に平八郎反逆の由密告 せしかば、其夜急に助次郎を駕にて江戸に送り、事由を訴へしめ、偖奉行 より城代に之れを急報して、防備の手当をなしたるに、兼て奉行山城守、 二月十九日早朝より見分の事ありて、役宅を出る筈をもて、之を途上に於 て鉄砲にて狙撃し、然る後石火矢を放つを合図に、四方の貧民一時に相応 じて、富豪の家に乱入すべき手筈なるに、既に変心の者ありて其手筈を誤 りしため、今は前後の考もなく、先づ己れが居宅に放火し、夫より所々に 火矢を射込て火を起し、其混乱に紛れて、貧民らに金穀を掠奪さすべしと せしも、奉行方には前夜既に其用意整ひたれば、火災は所々に起りたれど、 乱民の掠奪は左のみの事もなく、殊に大阪城番の大名は、兵を出して乱民 を討伐せるため、平八郎方は敗北して、或は討れ、或は焼死す、中にも平 八郎父子は其場を逃れ、油掛町五郎兵衛といふ者の別宅に潜伏せしが、訴 人ありて遂に二月廿七日、逮捕の面々向ふと聞くや、火を放ちて自殺せり、









台聴
(たいちょう)
貴人の耳に入る
こと







宸念
(しんねん)
天子のみ心、
お考え












鬱結
(うっけつ)
心の晴れ晴れ
しないこと


九牛の一毛
とるにたりな
いこと


近藤右衛門
吉見九郎右衛門
が正しい
























二月廿七日
三月廿七日
が正しい


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