Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱と西城罹災」(抄)
その4

池田晃淵

『徳川幕府時代史』 早稲田大学出版部 1904 収録

◇禁転載◇

第八章 修正時代
 大塩の乱と西城罹災 付家斉の薨去 (4)

管理人註
   

此の火災、十九日より廿一日に渉り、寺社武家町家を合て一万八千二百五 十余軒、町数凡百二十丁、実に大阪開府以来未曾有の大災と称へられ、之 を天保の大塩騒動といふ(天保塩賊乱と題せる其頃大阪在勤某家々臣実見 の記は尤確説たり)、或は大塩を以て勤王の義挙といひ囃すは、此時彼が 所々に配布せる檄文の中に、  四海困窮せば天禄永く終ん、又曰小人をして国家を治めしめば災害並び  到ると、然るに此頃大切の政事に拘り候諸役人共、賄賂を公然と貪り、  或は仕用して、奥女中等の縁に因て、何の分別思慮もなき拙き身として、  重き役に歴上り、一人一家を肥し候工夫のみに心を運らし 中略 四海  困窮相成候に付、江戸を始め、諸国一同上を怨まざる者なく、天子は足  利家以来別て御隠居御同様、賞罰のネを御失ひに付、下民の怨み何方へ  可訴申方もなきに依て、其怨気自然と天に通じ、年々地震火災、山崩れ、  川溢れ、遂に五穀飢饉に相成、是皆天より深き御誡なり、我ら草の蔭よ  り之を察し悲むと雖も、湯王武王の勢位もなく、孔子孟子の道徳もなけ  れば、徒らに蟄居致し居候処に、此節大阪の奉行並に諸役人共、得手勝  手の政道を致し、江戸へは回米の世話を致し乍ら、天子御在所の京都へ  は回米致さず、何れの土地にても、人民は徳川家御支配の者に無相違処、  如斯隔をつけ、其上大阪市中遊民計を大切に心得、有福の金持共は役人  格に取用られ、田畑夥敷所持し、此節の天災を見乍ら、恐も不致、揚屋  茶屋へ諸大名の家来を誘ひ、河原者を誘ひ、遊楽に耽けるは何事ぞ、奉  行諸役人共 中略 下民を救ひ候事も難出来、月々堂島の米相場計を致  し、実に禄盗人なり、之に依て蟄居の我ら最早堪忍難成、無拠天下の為  めと存、血族の禍を侵し、有志と申合せ、民を苦むる役人共を誅戮し、  引続き奢に長ぜる金持共もを誅戮致し、右の者所持の金銭米穀を、難渋  の者へ分散配当す、故に何時にても大阪市に騒動起ると聞に於ては、一  刻も早く馳参るべし、一揆蜂起の企と違ひ、都て中興神武帝御政道の通、  寛仁大度の取扱に立戻し、生前の地獄を救ひ、死後の極楽を眼前に見せ  遣し、中略 此度の一挙を平将門、明智光秀の謀叛に類すと申者も有之  道理 中略 全く以天下国家を盗む欲心より起り候には、更々無之は日  月星辰神鑑有之所 中略 疑敷ば我ら所業終る所を篤と眼を開きて見よ。 とある、



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