Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.25

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩の乱と西城罹災」(抄)
その5

池田晃淵

『徳川幕府時代史』 早稲田大学出版部 1904 収録

◇禁転載◇

第八章 修正時代
 大塩の乱と西城罹災 付家斉の薨去 (5)

管理人註
   

天子云々より中興神武云々の語に拠て推したる説なるも、大塩果して其志 勤王にありしやは疑問なり、又幕府方にては之を叛賊として、彼れ大阪城 を乗取る時は、必ず何れよりか応ずる者あるべしとの大野心なりとは尤信 じ難し、そは先に大阪町奉行にて此時勘定奉行公事方たる矢部定謙の評に、  平八郎は平生肝癪の甚敷者にて、此度の儀も叛逆とは存られず、彼実に  叛逆を謀るならば、いかで大阪の御城へ籠らざる事可有之や、兼て御城  御手薄の事、御門番人の事などは、年来彼者心配せる処なり、然るに其  御城へ向はずして、火矢を以て市中を焼払しは叛逆の非ず云々。 といひしにも知るべし、されば此騒動は所謂青天の迅雷の如く、疾くも四 方に喧伝せしより、越後にも此年生田道満同様の挙をなして斃れたり、道 満は秋田の産、嘗て平田篤胤に従て国学を修め、高足と称せらる、天保の 初、越後に遊び、柏崎に留り、神道を講説して在しに、天保七年以後凶歉 甚敷、下民飢に泣くと雖も、商人ら利を得んが為め米穀を他方に売出して、 毫も同郷の辛艱を顧みざるに、吏員ら亦た貧民救恤を謀らざるを以て、餓 街に満てり、会ま大阪に大塩の挙あり、其の意、救民に在りと聞き、道 満、俄に門人数人を語合、「奉天命誅国賊」と書せる旗を樹て、所在豪商 の宅を襲ふて米穀を奪ひ、貧民に頒ち、依て下民の之に加はる者、日に多 く、遂に柏崎陣屋を襲ひ、吏員数人を殺して死す、幕府其党を追捕するに 当り、道満の妻、其幼児を刺して自殺せるを以て、遂に其罪魁を得ずして 事平らげり、是よりして篤胤の学風は、北越に跡を絶つのみならず、後年 篤胤江戸追却も之に起因せりといふ、されば大塩の此挙は、事小なりと雖 も、実は幕末兵乱の端緒ともいふべく、是よりして漸次世局は乱世に向ひ たり。  (後略)




川崎紫山
「矢部駿州」
その9




















高足
門人の中で
優秀な者
 


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