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天子云々より中興神武云々の語に拠て推したる説なるも、大塩果して其志
勤王にありしやは疑問なり、又幕府方にては之を叛賊として、彼れ大阪城
を乗取る時は、必ず何れよりか応ずる者あるべしとの大野心なりとは尤信
じ難し、そは先に大阪町奉行にて此時勘定奉行公事方たる矢部定謙の評に、
平八郎は平生肝癪の甚敷者にて、此度の儀も叛逆とは存られず、彼実に
叛逆を謀るならば、いかで大阪の御城へ籠らざる事可有之や、兼て御城
御手薄の事、御門番人の事などは、年来彼者心配せる処なり、然るに其
御城へ向はずして、火矢を以て市中を焼払しは叛逆の非ず云々。
といひしにも知るべし、されば此騒動は所謂青天の迅雷の如く、疾くも四
方に喧伝せしより、越後にも此年生田道満同様の挙をなして斃れたり、道
満は秋田の産、嘗て平田篤胤に従て国学を修め、高足と称せらる、天保の
初、越後に遊び、柏崎に留り、神道を講説して在しに、天保七年以後凶歉
甚敷、下民飢に泣くと雖も、商人ら利を得んが為め米穀を他方に売出して、
毫も同郷の辛艱を顧みざるに、吏員ら亦た貧民救恤を謀らざるを以て、餓
街に満てり、会ま大阪に大塩の挙あり、其の意、救民に在りと聞き、道
満、俄に門人数人を語合、「奉天命誅国賊」と書せる旗を樹て、所在豪商
の宅を襲ふて米穀を奪ひ、貧民に頒ち、依て下民の之に加はる者、日に多
く、遂に柏崎陣屋を襲ひ、吏員数人を殺して死す、幕府其党を追捕するに
当り、道満の妻、其幼児を刺して自殺せるを以て、遂に其罪魁を得ずして
事平らげり、是よりして篤胤の学風は、北越に跡を絶つのみならず、後年
篤胤江戸追却も之に起因せりといふ、されば大塩の此挙は、事小なりと雖
も、実は幕末兵乱の端緒ともいふべく、是よりして漸次世局は乱世に向ひ
たり。
(後略)
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川崎紫山
「矢部駿州」
その9
高足
門人の中で
優秀な者
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