Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.8.6

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大塩の乱関係論文集目次


「矢 部 駿 州」 その9

川崎紫山 (1864−1943)

『幕末三俊』 春陽堂 1897 より


禁転載

適宜改行しています。


      第九 大塩後素の乱と駿州

大塩の乱

天保八年二月、十九日、大塩後素、乱を大阪に起し、事敗れて自殺せり。初め、駿州の、大阪奉行たりしや。大塩と交り、駕御其道を得て能く之を鎮圧したりしに、跡部城州、代りて奉行と為るに及び、終に勃発するに至りし也。

大塩後素、字は士起、中斎と号し、平八郎と称し、其室を洗心洞と号す。文政の末、天保の初め、高井城州(実徳)の大阪奉行たりしや、大塩其与力として、耶蘇教を禁し、浮屠の汚行あるものを沙汰し、豪族の奸猾を弾圧したりし等、其功、最も多し。高井、衰老を以て、其職を辞するに及び、大塩、義として、之と進退を同うし、招隠の詩を賦して曰く、

    無功漁釣亦応非。
    湖上煙波好正帰。
    頼倚吾公済時効效。
    今秋共製荷衣。
時に年三十七。彼、已に致仕すと雖、青雲の志、已まず、常に曰く『吾、小官なりとも、今、一たび出でゝ、大政の一端に与るを得ば、吾願足る』と。而かも志を得ざりき。此時、幕政益す衰へ、群小権を弄し、加ふるに、窮民凶饑に遭ひ、上を怨むもの多し。大塩此機に乗じ、私財を散し、また富豪の財を投じて、貧民を賑さんと謀り、窃に兵器を作り、同志を合して事を挙けんと欲し事未た成らずして、同謀者平山助次郎、近藤九郎衛門 *1 の告くる所と為りしと聞き、終に俄に兵を挙くるに至りしなり。
 

火を放て
自殺す
初め、平山、大塩の門人たるの故を以て、大塩強て同謀を勧めしに、陽に之に応じ、二月十七日、夜密に之を跡部に告げぬ。跡部即命じて江戸に至らしめ、書を駿州に致し、詳に其反謀を告げゝれば、駿州即刻之を水野忠邦に達せり。城代土井利位(大炊頭)兵を発して、之を撃ち、廿一日、全く鎮定し、大塩は、市井に潜匿したりしかとも、火を放ち自殺しぬ。  
大塩駿州
に推服す
駿州の大阪奉行たりしとき、大塩を見て、其常人に非ざるを知り、之と交を結びしに、大塩も亦駿州の人 と為りに推服し、敢て其野心を起さゞりき。

『見聞随筆』に云く

    『矢部曰、平八郎は、所謂肝癪の甚しき者なり。与力を務むる内、豪商を折し、小民を救ひ、奸僧を沙汰し、邪教を吟味したる類、天晴の吏 といふべし。又学問も、有用の学にて、なかなか黄吻書生の及ぶべきにあらず。

    某、奉行在役中、度々燕室へ招き、密事をも相談し、又過失をも問答すること浅少ならず。言語容貌決して尋常の人にあらず。彼、実に叛逆を謀らんには、いかで、大阪の御城へもこもらざることなるべし。(大坂御手薄の事、門番の事等、年来大塩苦心の事なりとぞ) 然るに御城へは不入して、棒火矢を以て、焼払ひたるは、何ぞや。某曾て、平八郎を招き、共に食を喫せしに、折節、金頭といへる大魚を炙り出せり。時に平八郎、憂国の談に及ぶとき。平八郎、忠憤のあまり、怒髪衝冠とも云べきありさま故、余、種々慰諭しけれども、平八郎ますます憤り、金頭の首より尾まで、かりかり噛砕きて食ひたり。翌日に至り、家宰某を諌めて曰く、昨夕の客は狂人なり。ゆめゆめ、高貴の御方に近つくべきにあらず。爾来、奥通りをさし留玉へと。実に某が為を思ひて、言ひけれども、汝が知らん所にあらずとて、始終、交りを全うせり。此一事、小なりといへとも、平八郎の為人を知るに足れり。

 
駿州大塩
の心を攬
る
亦以て駿州の、能く大塩の心を攬るの道を知るべく、而かも大塩の、駿州に対して、肝胆を披瀝せる有様如何を知るべし。 


非常の奴
なれとも
悍馬の如
し
其後、跡部城州、駿州に代りて、之に赴かんとするや、跡部、駿州に向ひ、町奉行の故事、并に其心得と為るべきことを問ひしに、駿州、其一班を語りし後、更に之に謂て曰く

与力の隠居に、大塩平八郎なるものあり。非常の奴なれとも、たとへは、悍馬の如し、其気を激せぬやうにすれば、用に立つべきなり。若し、奉行の威権もて、之を駕御せんとせば、危きなり』と。

跡部、たゞ、唯唯としてありしが、退て、人に語り

駿州は、人物なりときゝしに、相違せり。大任の心得振を問ひしに、区区として、一人の与力の隠居を御するの、御し得ぬのと心配するは、何事ぞや』と嘲りぬ。

跡部の大阪に至るや、時方に凶饑に際し、米価騰貴して窮民正に餓死せんとす。大塩、之を憂ひ、府下の富商に諭し、金を出して之を救はしめんとし、其子格之助をして、之を跡部に説かしめたるに、跡部笑ひなから『汝が父平八、心や狂ひなん、いかで、さる妄言を放つぞ』と云ひぬ。格之助、帰て、之を大塩に告げしに、大塩、大に怒り、終に大事に及びしとなり。

是に於て、人、皆跡部の無状を指し、駿州の先見を称せりと云ふ。

大塩の、誅に伏するや、幕府、之に擬するに、叛逆の刑を以てす。駿州は、叛逆の科を除きて、大不敬の罪に処せんことを主張せしも、終に行はれざりき。

『見聞随筆』に云く、

    『矢部曰、平八郎、叛逆人といへとも、駿河守が案には、叛逆とは不存候。……………たとへば、人過ちあるとき、再三反復して諌む。これを忠と云ふべし。再三忠告せる上にも、其人不用とて、是を憤りて、坐にあり合へる火鉢なとを其人の面へ投げば、不敬の至極なり。始めには、其人を憂ふるあまりに忠告し、後には其面体へ疵を付けば、安ぞ其人を憂るにあらん。

    平八郎も、始は忠告すれども用ひられざるを憤り、叛逆に均しき過乱を企しは、此類なり。

    されば、余、勘定奉行たりしとき、此儀を主張し、何とぞ、叛逆の科を除き、大不敬の罪に処したきものと建議せしが、其儀用ひられざるのみならず、某を、叛逆人に身を持つやうに、当路にては、そしりたりとぞ。

    平八郎の罪状を数へたる中に、子の婦にせんとて、養ひたる女へ、奸通の事あり。某は、平八郎の事よく知りたるが、其女は、近郷農民の子なり。平八郎の身を持たる者なり。実に子を配せんとならば、身を持たる者より約すべきなり。

    是は、全く下女におきたるを妾になしたるに、何の子細もなき事に似たり。

    其上、仮令その事、いさゝか疑ふべき事あるにもせよ、平八郎を拷問し、其罪に伏したるにも非ず。罪状を責ることも、さる事なれども、其人、既に自焚死黒焼になりたる平八郎に、如此罪状を与ふるは、公裁とは云ひ難し、

    人心の霊、愚夫愚婦まても、今に、平八郎様と称するは、陰に其徳を仰ぐにあらずや。されば、駿河守、其事を仕置せんには、却て平八郎年来の忠憤はさることなから、憤激のあまり、其跡、叛逆に等しきことを仕出したるは、上をも不畏太不敬と云へる事に、裁判せは、平八郎死せりといへとも、甘じて、其罪を受け、又大阪の人心をも圧倒すべしと。扼腕して語れり。』

 
使君撫治
得其道
東湖の詩中に『老吏平八尤沈鷙。崛強動不肯指麾。使君撫治得其道。政績于今伝口碑。』とあるは、葢し実際の句也。

 
 


管理人註
*1 「吉見九郎右衛門」。


井上仙次郎編「今古民権開宗 大塩平八郎言行録


「矢部駿州」目次その8その10

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