Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.24訂正
2001.3.26

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大塩の乱関係論文集目次


〔今 井 克 復 談 話〕
その1

吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収


適宜改行しています。


 明治廿五年十月十二日午前九時五十分今井克復君臨席
○天保八年丁酉二月十九日大塩平八郎変動の事実 附大塩の性行○大坂与力の弊習○高井山城守の話○切支丹婆豊田貢の話 ○弓削新右衛門の話○大阪与力の格式○頼襄、佐藤一斎の話 ○天保酉年饑饉の事○大阪豪商の奢侈○余談


 ○天保八年丁酉二月十九日大塩平八郎変動の事実
    附大塩の性行

今井君(克復) 一体その大塩の事は只今から取りまして見れバ、余程時勢が変つて居るから大層な事に申しますけれども、其時のことは今日の考とは大に相違致しますことで、アレ程の檄文を出したり、大層趣意のある事の様に申しますけれども、丸で発狂人の所為の様な事になつて仕舞ふてあります、一体大塩の事を考へるに、其時の事を御承知下さらぬと実に思の外の事で、平八郎の性質を御承知になりますと全く原因と申すものが分る様なことで、何も其深いことではござりませぬ、

自分が頻りに採り用ひられました所から、関東よりも召し出されまして、一廉の役人に採用せられたいが一念で、夫れが出来ぬところから常に政事を批判いたしまして、其ツゞマリは全くは其一念からアノ事が起つた様に思はれます、*1

文政十年頃東町奉行の高井山城守が大層大塩を取用まして、未だ其比は三十四五でござりましたが、多人数の与力の中から引抜きまして用ひましたところより、段々と増長を致して、始め関東へ出まして林家で学問を致したと人が言ひますけれども、与力出番と申して十五歳斗より出ますと閑のござりませぬもので、江戸へ学問に出ると云ふ様なことは決して出来ませぬことで、林家に長く居て学問をした様なことはない、

始め朱子学を致して大坂学者の中井七郎と申は、有名なる竹山履軒両人の後にて只今にて申ますれバ私学校を立て置かれましたものであるから、其所で学問を致して其後篠崎小竹、後藤松陰なども友達で学問は好んで余程勉励を致したものなれども、一体の事は其時の与力の風儀を御承知下さらねバ分らぬのは、其時は只今とは違つて、事も進歩せず無学文盲の役人バかりで、政治向の事などにハ定目もあつて練習致しますけれども、学問は町奉行組の与力は出来ぬもので、夫れ故に与力には誰れが何を得たと申者は一人もござりませぬ、

 ○大坂与力の弊習

然るに大坂は江戸と違つて誠に町人バかりの所でござりまして、武家と云ふものは少くなふござりまして、城内に御城代を始めまして定番、加番(是れは大名)大番其外属役は大勢詰て居るが城内のことバかりで、其他諸藩の在坂の人と云ふは皆な其藩の蔵屋敷に居て、米の売払に関係致すもの許で、是れも政治は素より并に市民の事に関係ない、

故に大坂の政治に関係せらるゝものは城代、町奉行ばかりにて、夫も城代は関東の命令を奉行に達するのみの主任にて、奉行よりは何事も惣て老中に直接に伺を出す事にて、裁判は丸で与力に委任して調査などさせてありますもので、江戸表に引較ぶれば至つて無人なもので、自ら其時の暴威が与力に帰して仕舞ふて、人に厭がられても面前は敬せらるゝに随つて、与力の弊政は余程ヒドイものでござりまして、先づ礼をしらず尊大にするを与力の格式のやうに思ひまする所が自から性質に成り、

大塩も人を塵芥の如く軽蔑致したもので、若き時よりして癇癪の強い男で、私は能く知らぬが、篠崎其他の人よりもよく承りましたが、気の短い男で自分の云ふた事を問かへしますると忽ち打擲する事なとあつて、心ある者は発狂人と思ふ様なことで、去なから勝気が強ふて与力には似合わす武芸も文事も出来て、

始めは朱子学より入りて後ち欧陽明の学問を信して、トウト陽明学者になりました、槍はさぶり流を学ひまして能く使つた様子、砲術は出来なかつたと言いますが、其他撃剣柔術等も余程致しまして、与力の中には別て芸術に力を入れましたもので、

今で云へは朝は八時前に出勤致しますまで書を読みます、午後は唯今の七時頃に――早い時は三時頃に帰つて、矢張武術を人に教へましたり、経書を講じましたりするが常で、其時の御奉行高井山城守は夫れを頻りに用ゐました、

 ○切支丹婆豊田貢の話

其頃切支丹の婆と申すものを吟味したことある、夫れから大塩の名が高くなつて、その婆は京都の八坂に居て稲荷を信仰致しまして、頻りに人を惑はせてあやしき事を行ひ、金が儲かるの、病気が癒るのと云つて人を寄せました、其婆が或る宮方の御家来分になつて豊田貢といふて大坂に下つて、上町辺に旅宿を致して紫の幕を張つて金の貸附けを致しました、其間には稲荷を信仰せよと云つて、怪しき術を致して人を勧めました、

色々の不思儀なることが有て、一旦人気は余程寄りましたやうで、其時町奉行から怪しき者と云ふことは見留ましたが、宮方の家来抔と称号を仮りて出る者は、容易に手を掛けぬ習慣になつて居る、種々探偵等を致す中に婆も心附いたか、京都に帰りました、

夫れを大塩が段々聞いて召取ることに致しました、大坂の町奉行から、京都の町奉行に懸合ふて、終に大坂に引渡すことになつて、其八坂に居る所を京町奉行の手に召取つて大坂に引渡しました、夫れを大塩が吟味を致しまして、旧幕政中第一厳禁の切支丹を行ふ者と云ふことに吟味を詰ました、其時は方今と違ひ切支丹は大塩も一向分らぬことでありましたらふが、夫れを切支丹に落しまして政府の下知で磔罪に致しました、其仕業は余程迅速にて手際で、夫れが大塩の名を弘めました始となりました、

 ○弓削新右衛門の話

夫れから致しまして又与力仲間の悪弊を正さなければならぬと云つて、其比西組与力に弓削新右衛門と申す者、賄賂を取つた風聞を聞出しまして正すことになり、厳しく所業を発きまして、終に詰腹を切らしたことかある、其一件に関係し手先に遣ひました吉五郎と云ふ者を獄門に致しました、

それより仲間の者も非常に畏縮致すやふなことになりて、市中でも大塩が来たと云へバ小児も泣き止むと云ふ勢で、夫れは併し恐るゝので大塩を尊信したのではありませぬ、


管理人註
*1 以下の論文が、このことを否定しています。


〔今 井 克 復 談 話〕 目次その2

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