吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収
自分が頻りに採り用ひられました所から、関東よりも召し出されまして、一廉の役人に採用せられたいが一念で、夫れが出来ぬところから常に政事を批判いたしまして、其ツゞマリは全くは其一念からアノ事が起つた様に思はれます、*1
文政十年頃東町奉行の高井山城守が大層大塩を取用まして、未だ其比は三十四五でござりましたが、多人数の与力の中から引抜きまして用ひましたところより、段々と増長を致して、始め関東へ出まして林家で学問を致したと人が言ひますけれども、与力出番と申して十五歳斗より出ますと閑のござりませぬもので、江戸へ学問に出ると云ふ様なことは決して出来ませぬことで、林家に長く居て学問をした様なことはない、
始め朱子学を致して大坂学者の中井七郎と申は、有名なる竹山履軒両人の後にて只今にて申ますれバ私学校を立て置かれましたものであるから、其所で学問を致して其後篠崎小竹、後藤松陰なども友達で学問は好んで余程勉励を致したものなれども、一体の事は其時の与力の風儀を御承知下さらねバ分らぬのは、其時は只今とは違つて、事も進歩せず無学文盲の役人バかりで、政治向の事などにハ定目もあつて練習致しますけれども、学問は町奉行組の与力は出来ぬもので、夫れ故に与力には誰れが何を得たと申者は一人もござりませぬ、
故に大坂の政治に関係せらるゝものは城代、町奉行ばかりにて、夫も城代は関東の命令を奉行に達するのみの主任にて、奉行よりは何事も惣て老中に直接に伺を出す事にて、裁判は丸で与力に委任して調査などさせてありますもので、江戸表に引較ぶれば至つて無人なもので、自ら其時の暴威が与力に帰して仕舞ふて、人に厭がられても面前は敬せらるゝに随つて、与力の弊政は余程ヒドイものでござりまして、先づ礼をしらず尊大にするを与力の格式のやうに思ひまする所が自から性質に成り、
大塩も人を塵芥の如く軽蔑致したもので、若き時よりして癇癪の強い男で、私は能く知らぬが、篠崎其他の人よりもよく承りましたが、気の短い男で自分の云ふた事を問かへしますると忽ち打擲する事なとあつて、心ある者は発狂人と思ふ様なことで、去なから勝気が強ふて与力には似合わす武芸も文事も出来て、
始めは朱子学より入りて後ち欧陽明の学問を信して、トウト陽明学者になりました、槍はさぶり流を学ひまして能く使つた様子、砲術は出来なかつたと言いますが、其他撃剣柔術等も余程致しまして、与力の中には別て芸術に力を入れましたもので、
今で云へは朝は八時前に出勤致しますまで書を読みます、午後は唯今の七時頃に――早い時は三時頃に帰つて、矢張武術を人に教へましたり、経書を講じましたりするが常で、其時の御奉行高井山城守は夫れを頻りに用ゐました、
色々の不思儀なることが有て、一旦人気は余程寄りましたやうで、其時町奉行から怪しき者と云ふことは見留ましたが、宮方の家来抔と称号を仮りて出る者は、容易に手を掛けぬ習慣になつて居る、種々探偵等を致す中に婆も心附いたか、京都に帰りました、
夫れを大塩が段々聞いて召取ることに致しました、大坂の町奉行から、京都の町奉行に懸合ふて、終に大坂に引渡すことになつて、其八坂に居る所を京町奉行の手に召取つて大坂に引渡しました、夫れを大塩が吟味を致しまして、旧幕政中第一厳禁の切支丹を行ふ者と云ふことに吟味を詰ました、其時は方今と違ひ切支丹は大塩も一向分らぬことでありましたらふが、夫れを切支丹に落しまして政府の下知で磔罪に致しました、其仕業は余程迅速にて手際で、夫れが大塩の名を弘めました始となりました、
それより仲間の者も非常に畏縮致すやふなことになりて、市中でも大塩が来たと云へバ小児も泣き止むと云ふ勢で、夫れは併し恐るゝので大塩を尊信したのではありませぬ、