吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収
文政十二年に高井は参府を申付られた、参府と云ふと転役に極つて居る事で、夫れに就きて平八郎は他日江戸に出ますから、予て心願の趣を御取扱を願ひたいと云ふことを強て申しました、高井は江戸に出立する前密に平八郎に諭したことかある、 其頃は江戸に出るとて容易に望の通りには出来ぬ趣意と、又江戸に出る心ならバ与力は一旦退かずバ、与力のまゝにては昇進は出来かねれバ、責ては江戸にて御家人の株に入身分を替たる上でなけれバならぬ、是迄与力の勤方に取ては十分勤功も遂た事なれバ、高井の参府した後は直に与力は退職すべしと懇々言ひましたから、高井と交迭の曾根日向守着坂の始めに退身しました、
扨高井が引受けて江戸表に参ると以ての外にシクヂツテ西の丸の御留守居になりました、是れは大阪の町奉行よりは下の役で、言はゞ隠居役である、其後大塩が江戸に出かけて高井へ参りました、*1
此番代と申まするは、奉行所の事を昔は番所と申たるからして云来りました唱へて、則奉行所に訴所と申場所を当番所と当時迄も申来ました、
譜代になりますと親某願之通隠居忰某家督仰付られ、親某へ被下高其儘之を下さるとの申渡に成まするゆゑ、世襲判然で御抱席とは格合か大に違ひます、たとひ御譜代席に成ましても又目見以上に成り一廉の役人になるは容易に登らるゝものではない
夫れを強く願つたものであるから、高井も困つて殊に其時代には夫々従前役順の続きがあつて昇進する仕来りで、遠国の者が仮令秀才でも呼出されて時めく様なことは決してないものである、
前に申しました通り、高井は江戸に帰ると大塩は直ぐに引ました、其時は三十七八であつた、
又江戸に御用の序でに佐藤一斎先生を訪ふたこともある、頼山陽の来た時は、山陽はアゝ云ふ才のある人であるから、大塩を大に誉めた様子で、佐藤一斎先生も文通を致されまして、大層大塩を誉られたこともある、与力にはめつらしきものと申された位で、
扨態々大塩が江戸に出て高井の所に行つて、予ねて約定のことを取計ひの道がないかと云つて迫つたけれとも、何分高井はシクヂツて仕舞ふて、大塩の云ふことは採用も出来ず周旋も容易ならず、高井も断はる気になつて大塩の身分の取扱ひは迚も出来ぬと云ふことに申切つて仕もふた、*1
夫れから平八郎が帰る時の次第は、私は其事を一向存ずる訳はござりませぬが、平八郎の家に幼年より寄宿致して居ました窪田英治と云ふ者は、私の懇意に致します隣家の医者の息子でござりまして、是れが大塩の供に参りまして、高井家の事抔も年立て私に話ました、
其の時の帰りには富士山に登りまして、裾野で誠に発狂とか思はれぬのは、陣屋にはドの辺が善からふ抔といふて図を引きまして、唯々陣を敷くには何処が宜からふ、彼処か宜からふと云ふたこともある、
其時から正気とは思はれぬ様なもので、夫れから又宅に帰りまして一年斗たちましてもドウかして出たひと云ふ一念は抜けませぬと見へて、再度江戸表へ出ました、其時は天保三四年頃で有ました、高井は逢はれませぬでした、夫れから只々自分の存じます所が思ふ様に行かぬ所から、政府の取計ひ向きを色々批判致しまして、ドウも高井を怨みまする様な気味がござりまして、
子弟を教へます所は学問の道であるから、不条理なこともなく、正当のことを以て教ふるものであるから、門人には敢て狂心のある人とも存じませぬ所から、夫れを信仰せぬ者はござりませぬ、中々今の人の申す様に誰れも彼れも尊信したと云ふことでは決してござりませぬ、