吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収
今井君 大坂に中井七郎と云ふ者がある、其他篠崎小竹(長右衛門)後藤春蔵(松陰)越智文平、並河復一抔ある、山陽先生も尋ねて来たこともある、東京へ御用で来たことが ある、其時林家へ出て佐藤一斎先生に逢ツたことがあります、
寺師君 中井と云ふは大坂の学者でありますか、
今井君 始は中井善太と云つて、七郎は履軒の孫で、其比篠崎小竹、後藤松陰此等は朱子学で、篠崎は山陽風の人で、俗に云ふ粋な風で、儒者は袴でも履いて居るのが、篠崎は着流しで、夫れが大塩の方へ能く来た人であります、
○頼山陽の話
寺師君 大塩が勤王を口実に言立てにしたことは山陽あたりから出て居りませんか、
今井君 山陽は両度訪ねた丈けであります、私共の仲間の金谷与右衛門と云ふものかあつて、芸州から山陽が出て来た時分に少し世話をして、私共の仲間の者の所に一年半も居られまして、京都へ行つて与力には随分感心な者であると云つて居つた様子、学問の先生は存ぜぬが、仲間が文盲なものであるから、其仲間でアレ丈け能く学問をしたと言つて居つた位でありましやう、
早川君 洗心洞箚記と云ふものは大塩が書いたものでござりますか、
今井君 私は読みませぬ、
今井君 与力は御抱席で士分にては下等で、御抱席は一代切りで相続はできませぬ、代る時は親何某暇、悴番代――裁判所を番所と云つて昔は番をしたもので、夫が伝つて居る物で、御譜代ならバ願の通り隠居、悴何某家督、是れまで親の通り家禄下さるゝと云ふことて、町奉行の外には譜代席の与力もござります、
寺師君 大塩は何席の与力でありました、
今井君 御抱席である、
寺師君 大塩の親は何を勤た者でありますか、
今井君 矢張り与力で、政之丞と申しました、
八木君 兄弟はござりませぬか、
今井君 ござりませぬ唯一人でござります、
八木君 与力は平日若徒でも連れて出歩きますものか、
今井君 若徒ひとり、僕一人、
今井君 カツプクは小い男で、頭開きて顔色青い男で、額に青い筋があつて、癇癪が現はれて居る、目は垂れて頬の下がツボんで居る男でありました、
寺師君 変動を起した、幾つでありました、
今井君 四十五才でありました、
今井君 ソんなものがありますか、
寺師君 書も書きますか、
今井君 書は宜ふござりませぬ、
中原君(邦平) 洗心洞箚記を書いてアノ辺の学者に見せたものゝようす、有名な人の序文がある、其中に佐藤の手紙があります、佐藤先生丈けありて学問は麁漏であるとか、此方向で勉強あれバ宜からふと云ふ大人ぶりた手紙がある、斎藤拙堂の手紙などは褒めて褒めて褒め上げてあります、
野口君(之布) 儒門空虚聚語と云ふものも版になつて居りますネー、
寺師君 大塩の乱暴後は城代の方でも政治の仕方が変りましたか、
今井君 ドウ致しまして、何も変つた事はない、併し天保十三年の大改革抔は少しは響きましたか、
寺師君 恐るゝことは恐れたのでござりますネー、
今井君 勤むる間は聞へましたが、引きてからドコに居るか分らぬ位で、――乱暴に就いては政事にかはつたと云ふ様な事は一つもない、
寺師君 裏切りした人の後とはドウなりました、
今井君 是れは御譜代になつて取立つべきところ死にました、
寺師君 時間が参りましたから今日はお休みを乞います
(一同立礼)