その3
山口恒七 1879刊 より
さて平八郎ハ、窮民を集めて其用に充てんと考へ、文章を真片仮名交りに綴り、之れを印刷せん。欲する人の怪まんことを恐れ、横に二三字宛彫らせ、出来せしを一に集め、摺物の職人を私宅に招き、一間に拷えて、之を摺らせ、黄地なる絹を袋となし、中に入れ、摂河泉播四箇国の村々なる神社仏閣の柱へ張置きけり。
其文に曰く、
太平の間に、追々上たる人驕奢とて奢りを極め、大切の政事に携はり候諸役人とも、賄賂を公に授受といひて贈り貰らひ致し、奥向女中の因縁を以て、道徳仁義もなき拙き身にて立身し、重き役に経上り、一人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦しむ、右之通に無体の義申渡し、追々入用かさみ候故、四海の困窮と相成候に付、人々上をうらまさる者なき様成行候得共、江戸表より諸国一同右の風儀に落入り、
天子は足利家以来、別して御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひに付、下民の怨ミ、何方へ告愬とて告け訴ふる所なきやうに乱れ候に付、人々の怨気、天に通し、年々地震火災ありて、山も崩れ、水も溢るゝより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是れ皆、天より深く御誡め難有き御告に候得共、一向、上たる人々、心も不附、猶小人奸者之輩、大切の政をとりおこなひ、下を怪まし米穀金銭を取立候手段斗りに打かゝり、実以て小前百姓共の難義なることは、我等沢草の陰より常に察し悲しみ候得共、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなけれは、徒に蟄居いたし候所、此節米価弥高直に相成、大阪之奉行并に諸役人共、万物一体の仁を忘れ、得手勝手之政道をいたし、江戸へ廻米いたしながら、
天子御在所京都へハ廻米の世話しいたさすのみならす、五斗一升位米を買ひ候者ハ召捕などの挙動これあり、実に、昔時、葛伯と云ふ大名其の、農人の弁当をはこひ候小児を殺し候も同様にて、言語道断、何れの土地にても人民ハ 徳川家御支配の者に相違なき所、斯くの如く、へたてを附候ハ、全く奉行等の不仁にて、其上、勝手我儘の触書等を度々差出し、大坂市中遊民斗りを大切に心得候得ば、前々も申通、道徳仁義を不存つたなき身分故と、甚以て厚かましく、ふとヾきの至りなり、且三都の内、大坂の金持ども、年来諸大名へ貸附候利徳の金銀并に扶持米等を莫大掠めとり、未曾有の有徳に暮らし、町人の身を以て、大名之家老用人格抔等に取用、又ハ、自己の田畑新田を夥敷く所持、何之不足なく暮らし、此節の天災天罰を見なから、畏れも不致、餓死の貧人乞食をも不救、其身ハ膏梁の味とて結構の者を喰ひ、妾宅等に入込み、或ハ、揚屋茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑むも同様に致し、此難渋の時節に、絹服をまとひし河原者を妓女と共に迎へ、平生同様に遊楽に耽るハ、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事なり、其所の奉行諸役人共、手に握り居候政事を以て、右之者共を取締め、下民を救ひ候儀難出来、日々に堂島相場計りをいじるハ、殊に録盗人にて、決して天道聖人、御心に難叶御赦しなき事に候、蟄居の我等最早堪忍難成、湯武の勢孔孟の徳ハなけれ共、無拠天下の為めと存し、血族之禍をおかし、此度、有志の者と申合せ、下民をなやまし苦しめ候諸役人共を先征伐いたし、引続き、おこりに長し候大阪市中金持の町人共を誅戮に及ひ可申間、右之者共、穴蔵に貯へ置き候金銀銭等、諸蔵屋敷内にかくし置候俵米、夫々も配当いたし遣はし候間、泉播の内、田畑不持もの、たとへ致所持候共、父母妻子家内の養育難出来程の難渋の者へは、右金米等を取らせ遣はし候間、いつにても大阪市中、騒動起り候と聞伝へ候ハゝ、里数をいとハす、一刻も早く大阪へ向け駈け参り候面々へ、右金子米を分け遣はし可申候、鹿台の金粟を民へ被与候遺意にて、当時の餓死難儀を相救ひ遣はすなり、若し又、其内器量有之者にハ、夫々取立、無道の者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候、必す一揆蜂起の企とハ違ひ、追々年貢諸役等に至る迄軽くいたし候、都て中興
神武帝御政道の通、寛仁大度の取扱ひにいたし遣はし、年来驕奢淫貪の風俗を一洗相改め、質素に立戻り、四海万民、何時迄も天恩難有存し、父母妻子を被養、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣す、尭舜
天照皇太神の御時代に復し難く共、中興の気象へ回復して立戻り可申候、此書附、村々に一々しらせ度候得共、数多の事に付、最寄の人家多く候大村之神殿へ張付置候間、大阪より廻し有之番人共に知らせさる様心懸け、早々村々え相触れ可申候、万一番人共眼付き、大阪四ケ所奸人共え致注進候様子に候て、遠慮なく面々申合せ、番人を不残打殺し可申候、もし騒動起り候を承りなから、疑惑いたし、駈け参り不申、又は、遅参に及ひ候ハゝ、金持の金米、皆火中の灰と相成り、天下の宝を失ひ可申候間、跡にて必らす我等を恨み、宝を捨る無道者に陰言を不致様可致候、其の為め一同に触れ知らせ候、尤是迄地頭村方に有之年貢等にかゝり候諸記録帳面類ハ都て人民の困窮を致し不申積りに候、乍去、决度の挙、当朝平将門、明智光秀、漢土の劉裕、朱全忠の謀反に類し候と申者も、是非これある道理に候得共、我等一同心中に国家を暮盗致し候慾念より起し候事ハ更に無之、日月星辰神鑑に在る事にて、結候所ハ、湯、武、漢高祖、明大祖、民を吊ひ、悪を誅し、天罰を執行候誠心而已にて、若し疑かわしく覚へ候ハゝ、我等所業、終る所、爾等眼を開て見居、
但此書附、小前の者は、道場の坊主、或ハ、医者等 より篤と読ミ為聞可申候、若し、庄屋年寄眼前の禍を、一己にかくし候ハゝ、追て急度其罪に可行者也
奉天命致罰候 天保八丁酉年月日 某 摂河泉播 庄屋年寄百姓并に 小前百姓共へ