その4
山口恒七 1879刊 より
斯くする中に、二月十九日にハ、新に上坂せし西の町奉行堀伊賀守、町々巡見して、平八郎か真向ひに住む同組与力浅岡介之進が方にて、両奉行同伴にて休息する由聞へけれは、事全く調ハすといへ共、此時を失ふ可らすとく、徒党の人数を調畧し、其休息の隙を窺ひ、不意に起り、飛道具を用ゐて微塵に砕かんとす、其郷民を集るにハ、平八郎、数年交り結ひし般若寺村名主橋本忠兵衛に托しける。忠兵衛は田畑を多く所持せし豪農にて鬼釘(鬼灯か)忠兵衛と異名し、頗る男気ある者なり。且、縁者のちなみあれは、兼て密談に組しける故、一議なく承諾し、其村方の窮民に施行すと号し、十九日の未明より平八郎の宅に集むることに約し、又、一味の与力小泉淵次郎、瀬田済之助の両人ハ、十八日役所泊番にて夜詰なれはしめし合せ、巡見の留守に火を放ちて、奉行の役宅を焼立ん、と夫々手はつを定めけり。
然るに一味の内同心平山助次郎といふ者、心弱かりけん。七日の夜、奉行跡部山城守に密訴しけるハ、大塩平八郎父子、并に、瀬田済之介、小泉淵次郎、吉見九郎右衛門、渡辺良左衛門、近藤梶五郎、庄司磯右衛門等申合せ、大胆なる義を企たて、兵具及ひ放火の用意仕置、近在の百姓共相語ひ、来る十九日、御巡見之節を待受け、浅岡助之進方御休息の隙を伺ひ、不意に起て両奉行を討奉り、市中を焼払可申等相企て、私儀も一味連判仕候得共、天下の動乱を釀し候事、唯今に至り、何共恐入候次第心付候間、此段申上候由述べけれハ、山城守大に驚き、助次郎をは不取敢一間に籠め置き、翌十八日に至り、西奉行堀伊賀守へ、右の仕末密談に及ひ、虚実如何あらんと評議せられける末に、山城守云けるは、
旧冬、彼等共大阪の富豪より金銀を莫大に出させ、困窮の者を救はんと云立てしを、取用ゐさるを深く怒り、自分の書物を売払て施行せし抔、其疑ひなきにあらす。早速両組の捕込方を差向けん、
と与力吉田勝右衛門に、同心召連れ、大塩父子を捕ふ可き様申付られたるに、億したりけん。申けるハ、
大塩平八郎斯く容易ならさる企を致し候上ハ、其備へなからんや。彼ハ頗る軍書に長し、且、大に人望あり。常に数多の門弟、文を講し、武を錬り居候得は、容易に向ひ難く、殊に大器の用意ありといへは、却てわつかの人数をまで損し、毛を吹て疵を求る事あらんも知る可らす。其上、虚に乗して、大炮を以て御役宅を攻めなハ、何を以てか之に当らん。何卒計畧を以て穏便の捕方に致し度、今一應御賢慮を乞ふ、
といひけれは、山城守も心まとひ、伊賀守にも其段申遣ハし、一時見合となし、彼の訴人助次郎をは書状を持たしめ、御勘定奉行矢部駿河守方へそ遣ハしけり。
然るに十九日曉七つ時頃にや、同しく一味の同心にて吉見英太郎、河合八十二郎の両人證拠の書面を持参して伊賀守に訴へけれは、此上ハ一時も猶予為し難し、兼て打合せの通り、捕手の手配を為さんとし、先つ第一、彼の連累たる瀬田済之助、小泉淵次郎の両人、泊番にて当番所に在れハ、山城守は之を呼ひ、自ら実否を糺さて、家来の武善之助をして呼ハしめ、次之間に至るとき、脇差をとらしめんとせしに、両人は大に驚き、一大亊既に露顕せしならん、と心得、直に逃れんとするを見て、遂に茶室に追ひ詰め、米淵二郎(小泉淵次郎か)をは殺しける。時に十八才なりと。
済之助は其隙に裏に出て、塀を乗り越へ、一足飛に大塩方に至り、此由を告け、
今は是迄なり、事顕ハるヽ上からハ、此に討手を引請くるハ利あらず、先する時ハ人を制す、
といへは、
と一味の者を呼て手配をそ為しける。
茲に、近頃洗心洞に修学の為め来寓せし、彦根藩士宇津木兵司といへる若者あり。武街に達し、一器量ある者なれとも、昨今の事故未た斯挙を告けすありけれと、今ハ包む可くもあらされハ、一大事を打明け味方に頼みしに、兵司、此時席をうつて云へるハ、
先生物にくるひ玉ふか。此程よりの様子、何となく不審なれハ、万一非義の企もあらんにハ、信義を以て諌めんと思ひしに、果して然り。今天下太平の化普くして徳沢民に湿ふこと、茲に二百有余年、上古堯舜の世といへ共、之に増すことあらんや、近来連年諸国違作し、天下飢饉に及ぶと雖も、是れ豈朝政の得失に因らんや、天ハ、元至大至高悠々として無心の如く、仁も不仁あることなし。其霖雨暴風あり、或ハ気候の調ハさるは、所謂廻り合せの悪敷にて、堯の徳あるも天下降水あり、湯王の時七年の旱ありとか聞けり。先生数代国家の恩録に衣食す。何を足らすとして、彼の宋賊宋江等か所為に傚ひ斯かる企てをハ為したまふそ。是れ石を抱て淵に臨み、離卵を以て岩石を砕かんとするに同しく成功なし。却て、身戮せられ、先祖血食を絶ち、妻子耻かしめられ、臭を百世に残すに至らん、
と諌めけれハ、平八郎大に怒り、
大事を妨ぐる上ハ、命を申請る
と云ひぬく手も見せす、一刀に切て捨、死骸を庭前の梅にかけ、血祭なりと罵り、直に出陣の用意を為し、狼煙を揚て近郷の一味の徒に知らせ、近隣に火矢を放ち、おし出てける。