Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.9
2003.2.11訂正

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


今古民権開宗 大 塩 平 八 郎 言 行 録」

その5

井上仙次郎編

山口恒七 1879刊 より


◇禁転載◇

(句読点・改行を適宜加えています。)


扨、町奉行所にてハ、跡部山城守、右の始末を堀伊賀守に通しけれハ、伊賀守も急き役宅え参られ、共に其手配をそ談せらる。其前に、山城守、平八郎の伯父、大西与五郎を呼び申されけるハ、

と。然るに与五郎臆病の性質ゆへ、病気なりとて脱走しけれハ、刺客の計畧遂に行なはれす。山城守にハ、其手の与力同心共、或は大塩の同類なるかも知れすと孤疑し、御城代土井大炊頭利信に面会し、玉造御定番の与力同心を乞はれけるに、幸に此変事を聞て、玉造口御定番遠藤但馬守胤虎出頭せられけれは、早速承引し与力坂本鉉之助等三人、同心三十人を東町奉行所へ遣はしける。

却説、大塩平八郎は、兼て製造せし救民と大書せし簇と、天照太神八幡大菩薩、湯武両聖王の旗、及ひ、桐の紋の旗を押立、(大塩の定紋ハ蝶の丸なれと、今川の庶流なりとて桐の紋を用ゐといふ)大砲を車にのせ、一味の者廿人斗り前後に従へ、建国寺の後より火矢を打掛けたり。是れハ、建国寺には東照宮の社あれハ、御宮の守護として両町奉行出馬するハ必定ならん、其時本望を逹せんとするの計畧なりしとそ。

然るに、御宮ハ、御代官池田岩之丞、今朝、町奉行よりの急報に付て、其手附手代ハ勿論、非常の人数をも召連れ、建国寺に走り至り、神輿を守護し、東照大権現と書きし幟を立て、其人数凡百人余にて生玉え遷座しけれハ、大塩の計策相違して、奉行出馬為さヽれハ、大塩等、以謂らく、臆病神につかれて出馬為さヽるなるへし、いて進ミて討取る可し、少しも猶予為す可らす、とて天満の町家を焼立て、天満宮に大炮を打込み、青物河岸に押出し、天満橋を渡らんとせしに、御鉄炮組同心及ひ御城代土井家の人数、鉄炮の筒口を揃へ、釣瓶打に打掛けんと待ちかけたれハ、破れ難たしとや思ひけん。川岸を放火し、天神橋を渡らんとす。

徒党の人数追々到着し、百有余人に至りけれは、勢益熾にして橋詰に到れハ、南の方、既に切り落したるを見、大塩からからと打笑ひ、

進みて難波橋を渡らん、とて押し行きけり。

御城内には、十九日より追手升形に土囲を築き、大炮五門を据へ、御門外にハ、柵竹束の用意厳重にして、土井家の藩臣守衛し、京橋ハ、御定番米倉丹後守政年、未た上阪為さヽれとも、其手の与力同心相守り、玉造は遠藤但馬守胤虎の与力同心及ひ、加番菅沼織部正の与力同心相備へ、大炮二門を置き、外に柵竹束を備ふ。杉山算盤四輪等の諸口にも大炮を構へり。郭外にハ尼ケ崎の藩兵千余騎、岸和田の藩兵七百余騎、堀際に陣し、御船手の一手ハ川口を守りて、通船を点検す。郡山藩兵の先陣三百人、玉造に入る。御本丸其他、御櫓等に至る迄、守衛最厳重にして、如何なる大敵といへとも犯す可き様なかりし。

扨大塩の兵ハ難波橋に至るに、人々斧を振りて、橋杭を切らんとするにそ、此橋なけれハ、渡ること叶ハすとて、其者を目かけて鉄炮を放しけれは、斧鋸等打捨、皆散々に逃け走りけり。

是に於て、平八郎、難なく難波橋を渡り、鴻池の一家に討入りけり。鴻池善右衛門ハ、天下に聞へたる巨豪なれハ、番頭手代等多人数さわき立、蔵をしめ、荷を運ひ、狼狽一方ならす。平八郎父子、采配を打振り、下知して、車に乗せたる木炮の玉目五貫目なるに、火矢を仕込み、放ちけれハ、霹靂の砕くるが如き響きを為し、忽ち崩ける大塩の兵ハ、家毎に放火し、

と声を揚け、怪我あやまちを厭ひしとそ。

斯くて、大塩勢は二手に分れ、一手ハ大井正一郎、之を牽ゐて本町筋に出て、米平の一類を焼立て、又一手ハ、平八郎、之を指揮し、高麗橋筋の三井、岩城等の店を焼んと進撃せり。至る所人命を害することなく、豪家の外ハ秋毫も犯す所なし。往来の者を呼ひ、金銀を与へ、又は、荷を負はせ抔せしとか、三井店にては、呉服類ハ勿論、諸帳簿も皆焼き尽され、其土蔵一箇所も残れるハなく、尽く烏有に帰せしといへり。岩城に至る頃には、今朝よりの運動にて大に疲労せしにや、七八十人押入りて、ありあふ所の飯櫃をいたさせ、各充分に飲食し、火矢を打て立退きしかは、土蔵ハ全きことを得たりと。


『大塩平八郎言行録』目次/その4/その6

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ