Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.9.9
2002.9.17修正

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大塩の乱関係論文集目次


今古民権開宗 大 塩 平 八 郎 言 行 録」

その6

井上仙次郎編

山口恒七 1879刊 より


◇禁転載◇

(句読点・改行を適宜加えています。)


又、町奉行所にてハ、大塩勢、市中を乱妨するよしの注進、櫛の歯を引くか如く、頻りに訴へたれは、打捨をき難く、両奉行、出馬して鎮撫せんと登城して、御城代に達しけれハ、然らハ加勢を増す可しとて、玉造口御定番の与力をハ出張せしめらる時、既に午の中刻にもあらん。炎煙天に漲り、炮声比々間近く聞ゆるにそ。

跡部城州の馬を真先に押立、山城守出馬せらる。其先陣として、玉造口定番、遠藤但馬守胤虎の陣代、重臣畑佐秋之助、与力七人、同心三十人を牽ゐて、平野町筋を西へ進行するに、其間凡そ壹町余の所、一群の大塩勢、鉄炮を打掛け、黒煙の中に籏を立て押来るを見て、同心三十人、筒先を揃へて一同に切て放せハ、其勢ひにや恐れけん。散々に乱れ立て引き退く。

此時、堀伊賀守も乗馬にて出張ありけれハ、兵を分けて二手とし、山城守にハ思案橋を渡り、伊賀守ハ本町橋を渡り、共に西の方へ進撃す。

山城守、堺筋に至る頃、大塩早くも其馬を見て、それ奉行こそ出陣せり、望む所の敵なれは、討洩すまし、とて馬標を的とし、烈けしく鉄炮を打かけ、其中にも大炮を差し向けけるに、筒口上りたれ、之を押し下けんと為すにそ、与力等筒先を揃へ、撃破らんとす。坂本鉉之助、本多為助、其有様を見て、筒先高し、おり敷々々と差図しけり。此時、大塩勢ハ、斯く大炮の方針を定め、彦根浪人の梅田源左衛門、火縄をとりて、将に放たんとす。坂本、本多の両士は列を離れて進ミ、梅田を討たんと左右に立並ひ、筒先を向けてねらひけるに、此時遅く彼時早く、大塩の徒、用水桶の蔭に忍ひ、小銃を以て坂本をねらひ、既に火蓋を切らんとせり。

本多、目早く之を見て、鉉之助よ危し危し、と二た声はかり呼へとも、物音に紛れしや、又は一心に梅田をねらひて耳に入らす。坂本の命は風前の燈火より危し、本多気をいらち、梅田をねらひし筒先を、用水の方に向け打放せハ、用水桶をかすりて当らす。其時、彼徒も亦同時に発炮せしに、手元くるひしにや、坂本の陣笠の端を打抜きたり。坂本の放ちたる鉄炮は、過たす。彼の大炮を今や討たんとせし梅田の腰より右へ貫きけれは、何かハ以てたまる可き、火縄持なから倒れけり。是にや臆しけん、大塩勢ハ、忽ち散乱して、右往左往に逃け去りけり。元来、烏合の兵なれは、立返す様もなく、宗徒の者も力およはす、共くづれにいたりしと見えたり。其時、棄て置きし品々は、百目玉の長筒三挺、同短筒壹挺、玉目四五貫目程の木炮、大さ四斗樽の如く松の木をくりて、外へハ竹輪をすき間なくかけたるなり、其他にも、鎗四五本、小筒五六挺、籏二本程ありし。

扨、西町奉行堀伊賀守は、本町橋を渡る所、大塩の兵、ハるかなる地にありて、打たる炮声に其馬驚き、前足を上けて直立しけれは、真逆様に落馬ありしかは、其手の者共、鉄炮にうたれたるならん、と心得て逃けいたしけり。

畑佐秋之助、之を見て、大声に、

と云ひしかハ、稍く静まり、筒先を揃えて打払ふ。其隙に伊賀守、再馬に打乗り進撃をそせらる。進みて難波橋の北の辻に至り、引返して淡路町に趣きけり。大塩勢は、大半散乱して行衛知れされは、両奉行、茲に集合し、山城守は登城して御城代え告けんとて引返し、伊賀守は町々巡見して後、登城せらる。

畑佐秋之助ハ、与力同心等を率ゐて、思案橋の南に陣し、京橋口の与力同心の一手は本町橋をかためて、非常を警備せらる。斯くて、市中ハ、大塩の勢、散乱して鎮定したれとも、火気益募り、河頃鎮火す可くとも見えす。然るに、誰いふとなく風説するに、大塩の兵、夕暮に至りて玉造へ押寄せて放火する企あり、抔と聞えけれは、御城にてハ、夫々准備をそせられける。

日暮に及ひ、玉造の方に、大勢の人数押来る容子なれは、人々、すはや賊の寄せ来るそ、と罵りあい、其近つくを見れハ、是れ郡山の城主、松平甲斐守保泰朝臣の、手勢を率ゐて、在所より御城の守護として出陣せしにそありける。其頃彼の大塩党の一人、河内若江弓削村の郷民西村利三郎と云ふ者、貧民を引き来りしが、大塩敗軍して散乱せし後なれは、計謀相違し、其まヽ引かへしけるとか。

其翌日廿日に到り、未た鎮火せす。余党守口宿に屯在するの風説あり。守口にハ、御城代の命として、伏見奉行加納遠江守、之を警めけれと、其虚実を探らん為め、与力をは出張せしめらる。


『大塩平八郎言行録』目次/その5/その7

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