その7
山口恒七 1879刊 より
茲に、大塩党の一人にて、平八郎の伯父なる宮脇志摩は、吹田村に住し、神職を勤め居りしかは、与力等は其家を囲み、声高く呼ひ出したる所、志摩は切腹せしと見へ、腹を袖にて抱へ、双手は指先まて血に染まりしまヽ居さり出て、云ひけりよふ、
某、昨日天満に当て、火見えけれは、平八郎の宅、心もとなくと存し、天満辺まて馳せ参り候処、はや焼跡にこれあり。其辺にて巨細の原因を伝聞し、始めて彼れか逆謀なることに驚き、立ち帰り、熟考候に、近親の某なれハ、御疑念のあるは必定にて、遁る可き道なく、既に覚悟相定め候得共、此儘相果候ては、死後の汚名も残念と存し、御捕手の入来を相待ち居候次第なり、
と申けれは、村役人を呼ひ、預け置き、与力等は、其外を捜索して退きける。然るに、志摩は、兼て大塩に一味し、十九日の戦争にも、頗る抜群の働きを為しけれ共、遂に敗走しけれは、散乱の後、吹田村に帰り、養母を刺殺して、其血を我腹に塗り、割腹せし体に為し、捕手を欺きしなりと。斯くて、其姦計、充分に調ひけれハ、尚も番人を欺かん、と死せし体に見せけれハ、番人も今は安心なりと思ひしか、其閑を窺ひ遁走し、神崎川を渡らんとするに、巡警厳重なれハ、逃れんとするに術なく、終に猪名川堤にて自殺し、其儘水中に入りて死せしを引揚け、訴へ出にけり。
是に於て、其余党の捜索、最厳密なれは、追々捕縛に就くと雖とも、また其主謀たる大塩父子を得す。茲に彼の橋本忠兵衛は、天性豪気にして武術に達し、大塩と無二の交友にて、殊に先年平八郎養子格之助の妻と為さんとて、忠兵衛の娘ミねを貰ひしかハ、縁者の親しみもありて、初めより一味し、其の居村の百姓を集め、一方の首領たらんと約束せしなり。初めみねハ、格之助の妻と為さんとて約束しけるに、容色美麗なりしかハ、平八郎自ら之を妾とし、去年男子出生しけるに、大塩は、今川義元の後胤なりとて、私に今川弓太郎とそ名付けり。閑話休題。
平八郎ハ、忠兵衛に謀り、一家の者を、二月七日より、伊丹の知人麹屋七郎右衛門方へ預け置きける。茲に、十九日未刻、大塩の徒党散乱したれは、今は是まてなり、と淀川に繋き置きし船に、平八郎を始めとして、十七八人乗り込み、中流に棹さし、天神橋辺をこぎある。日日暮て各々上陸し巳か随意々々落行ける。
其中に、平八郎は、忠兵衛に向ひ言ひけるに、
最早大事も去りたれハ、此上は割腹せんか、炎々たる火中に投身するか、二路なれハ、足下は此地を落ち、我眷族を刺し殺してこヽろかヽりのなき様に頼むなり。此一事のみ死しての後の懸念なり、
と。忠兵衛曰く、
そは心やすかれ、大丈夫の死を見る事帰するか如きのみ、
と相別れて、伊丹に赴き、平八郎の妾ゆう及ひミねに、此度の一事を具に告けて、速に自害すべし、我、介錯して見苦しからぬ様に為し、我も跡より追付て死出の旅路の道連せん、といひけれハ、両人共大に驚き、
箇程の工みのあることなら、少しは訣を打明て、咄して置きて下さらハ、又あきらめもせんものを、いかに武士のならひとて、あまりといへは同慾な、
と悲歎のなミだにかきくれて、又、せんすべもあらされハ、忠兵衛幾んと困却し、言葉もなくて大息せりを、みねハ容を改めて、
死ねとならハ死にもせんか、現在、此弓太郎ハ乃翁の初孫、この寝すかたを見たまはヽ、何処に刃物か当てられましよう、又一つにハ、此妹、夫に義理ある其上に、またわきまへもなく、今年漸く十二になる者を、捨殺しにするとハ、鬼ても蛇ても出来様か、仮令捕はれ、謀反人の従類たとて、水火の責に逢ふことも覚悟は極めて居ります、
といひけれは、忠兵衛、豪気もくたけ、歯を喰いしはり、平八郎と誓ひし詞わやぶるとも、遁るヽたけは遁れてミん、運命つきて捕はれなハ、其時処刑にならん者、と姿をかへ、旅人の上方見物の体にやつし、京都をさしてそいたりけり。京都は、余党の詮議、尤も厳く、遂に同月二十七日召捕られ、大阪に送られ入牢せり。