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2001.10.20修正
2000.6.26

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「大 塩 中 斎」 その10

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (10)

天保八年二月十九日 中斎兵を挙ぐ、

其徒数百人 先づ豪商輩の家屋を焚燬し、倉庫を破壊し、金穀を四散せり、既にして山城守の兵と戦ひしも利あらず、黄昏に及ぶ比に余ます所僅に八十余人のみ、乃ち其徒を解散して自らも其跡を暗ませり、

此日火勢熾に引いて翌二十日に至りて益々猛烈となり、大阪市の四分の一以上を焼失せり、是れより警戒殊に厳にして中斎の徒を探偵すること急なり、

是に於てか 中斎の徒にして或は縛に就くもの 或は自殺するもの、或は自首するもの、前後数十人に及べり、

然れども 唯々中斎及び格之助の踪跡未だ分明ならざるを以て、人心尚ほ恟々たり、越えて一ケ月を経て、即ち三月の下旬に至り、中斎匿れて大阪の一商人の家にあること露はる、

二十六日の黎明、吏卒数十人来りて中斎を捕へんとす、中斎吏卒の来たるを知り、格之助と共に火を放ちて焚死せりといふ、時に中斎年四十有四、

中斎が兵を挙げたるは、固より其忿怒の余に出で軽率の謗を免れずと雖も、其窮民を愍むの心あるに至りては、未必しも非難すべきものあるを見ず、彼れ驕慢の心なしとせざるも、窮民を愍むの心は真に之れありしが如し、唯々名を好んで然りしと謂ふを得ざるなり、箚記に曰く、

又云く、

中斎は此の如き見解を有せしが故に 暴吏の暴状を見ても、吾心中の事となし、窮民の窮状を見てもも、吾心中の事となし、到底冷淡に看過すること能はざるが故に、遂に己れを忘れて爆裂するに至りしなり、是故に中斎が衷情決して恕すべきものなしとせざるなり

若し又中斎が 幕府の苛政に反して反抗の旗を揚げ、窮民の為めに身を犠牲に供せしことを思へば、彼れは殆んど社会主義の人なるが如し、然れども彼れ固より今日の所謂社会主義の如き思想ありしにあらず、

但々王学の結果は一視同仁の平等主義となるの傾向なしとせず、藤樹の如く分明に平等主義の観念を有せり、故に中斎が挙動の如き 自ら社会主義に合するものなしとせざるなり、


井上哲次郎「大塩中斎」その9その11
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