天保五年中斎は増補孝経彙註を著はせり、是に於てか四部の書成れり、
曰く、古本大学刮目、
曰く、洗心洞箚記、
曰く、儒門空虚聚語、
曰く、増補孝経彙註、
是れを洗心洞四部の書となす、
此の如く中斎は其辞職後専ら力を講学と著述に用ひしと雖も、高井山城守以後に来たれる諸奉行は中斎の威望と才学とに服し、其施政に関し、難件あるときは往々彼れに諮詢して之れを決せしを以て中斎の勢力は常に隠然諸奉行の上にあり、就中矢部駿河守は中斎の最も親善せし所なり、
天保七年の春矢部駿河守転任して江戸勘定奉行となり、四月二十八日に至りて跡部山城守之れに次いで大阪東町奉行に任ぜらる、山城守其器凡庸、人を見るの明なく、遂に中斎をして乱をなさしむるに至れり、
藤田東湖の見聞随筆に云く、
丙申の秋大阪町奉行矢部駿河守 勘定奉行に転ず、
跡部山城守 矢部の後任を命ぜられ 相代らんとする時、跡部は矢部に町奉行の故事并に心得なる事を問ふ、
矢部 如此申送りたる後云ふ様、
与力の隠居に平八郎なる者あり、
非常の人物なれども、譬へば悍馬の如し、其気を激せぬ様にすれば、御用に足る可き事なり、若し奉行の威にて是れを駕御せんとせば、危きなり
と語るに、跡部 只唯々としてありしが、退いて人に語りけるは、
駿河守は人物と聞きしに、相違せり、大任の心得振りを問ひしに、区々として一人の与力の隠居を御するの御し得めのと心配するは何事ぞやと嘲りけるが、
翌年に至り、平八郎 乱を作し、程なく誅服すと雖も、跡部奉職無状と世大に指を弾じ、駿州の先見を称誉せり、
此歳の秋 中斎播州の甲山に遊び詩二首を賦せり、云く、
熟々此詩の旨意を考ふるに、中斎 内に激する所ありて不平に堪へず、漸く事を挙げんとするの前徴を露はせり、中斎何故に然かく内に檄する所ありしか、
今其由いかんを考ふるに、天保二三年の頃より気候不順にして五穀多く登らず、天保四年に至りて遂に全国の大飢饉となれり、此れより引き続き年々不作にして、天保七年に至り、更に一層甚しき大飢饉となり、其惨状最も甚しとなす、
中斎之れを傍観坐視するに忍びず、格之助をして、跡部山城守に見え、大に倉廩を開いて窮民を救はんことを請はしむ、
山城守之れに答ふるに、四五日を出でざる内に、必ず施恤する所あらんことを以てせり、
中斎 大に之れを悦び、指を屈して其時日の至るを竢ちしに、選延彌久し、
幾日を経るも、遂に此事なし、
是を以て格之助をして其事を促さしむるも、亦其効力なし、因りて復た格之助に峻請せしむ、
山城守 之れに答ふるに、江戸へ多量の米穀を回送すべき必要あるが故に、賑恤の挙は姑く之れを身合すべきの命あるを以てせり、
中斎 当路者の冷淡なる処置を慨すと雖も、復た之れを奈何ともすること能はず、因りて更に工夫を変へ、市中の豪商輩を説き、幾多の金員を借り、以て窮民を救はんことを企図せり、
然るに山城守 反りて之を遮り、豪商輩をして中斎に金員を貸すこと勿らしむ、
是に於て中斎大に怒り、自ら救済する所あらんと欲し、一切の蔵書を売却せり、其部数一千二百にして価六百五十両に上れり、
乃ち一万枚の切手を製し、尽く之を窮民に施与せり、然るに山城守は中斎が此挙あるを聞き、直に格之助を召して、私名を売らんが為めに窮民に施与したるものとして、大に譴責を加へたりといふ、凡そ是等の事 一々中斎を刺激し、遂に中斎をして乱をなさしむるに至れり、
中斎婢妾等口書に云く、
平八郎儀 平生至りて気質堅く候処、当春より少々乱心の様子に相見え申候、
彼れが殆んど狂せんばかりに憤激せしを知るべきなり、