Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.12.1

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「大 塩 中 斎」 その21

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第四 学 説
 第一  総 論

中斎が学説を叙述するに当り、先づ其主義及び其主義を立つるに至りし所以を一瞥せん、

中斎は陽明学を奉ずるものなり、彼れ自ら学名学則中に孔孟学の名称を用ふれども、其実、陽明学に外ならず、彼れは別に師伝あるにあらず、全く独学によりて姚江派に帰するに至りしなり、執斎東里等歿してより数十年間王学を主張するものなし、此時に当りて中斎起りて学を講ずるも、其適従する所を知らず、偶々呂新吾が呻吟語を得て、之れを熟読翫味し、恍然として覚る所あり、困りて又其淵源する所の姚江にあるを知り、遂に陽明全書を得て誠心研磨するに至れり、

然るに不幸にして肺病に嬰り、死せんと欲するもの再三にして湯薬効を奏し難く、病勢益々厚かりしも、何の幸か復た蘇生するを得たり、中斎殆んど以て天祐となし、是れより陽明の靈に盟ひ、身を殺して仁を成すの志を立てヽ学を講じ道を修むることを務めたり、

彼れ巳に死生の間を往来し人天の際を出入せり、其決心の堅きもの、抑々又故あるを知るべきなり

弟子に示す文中に云く、

此の如き決心は姚江より得来たる所にして、又中斎が遂に実行せし所なり

中斎陽明学を奉ずと雖も、決して朱子学を排するものにあらず、寧ろ朱王を併せ取ることを公言せり、朱子文集を奉納する跋に云く、

又陸象山全集を奉納する跋に云く、

中斎此の如く朱王良氏を併せ取るの意を述ぶと雖も、是れ其公平を装はんが為めの言に過ぎず、其実全く陽明の学を祖述するものなり、寛政の初、異学の禁ありてより以来、学者屏息して異学を唱ふるを敢てせず、一斎の如き、心竊に陽明を信ずと雖も、公然之れを主張すること能はず首鼠両端其主義を曖昧にし、畢竟摸稜の【此/言】を免れず、

此時に当りて公然王学を唱へたるもの独り中斎あるのみ、中斎が世の非難を顧みずして其所信を貫くの挙に出でたるは、学者の本分を尽くせるもの、其勇気殊に愛すべしとなす、若し其官を問へば、彼れ実に一与力に過ぎすと雖も、人爵は吾人の尚ぶ所にあらず、彼れが剛強にして屈せざる所、懦夫をして起たしむるに足るものあり、

薄志弱行の世、何づれの処にか彼れが如きものを求めん、彼れは学者と豪傑とを打ちて一丸となしたる者なり、


中斎王学を主張するものに相違なきも、亦自ら一家の主義なしとせず、陽明の如く致良知を言はざるにあらざれども、亦帰太虚を主張せり、陽明曾て良知を以て太虚に比すと雖も、未だ帰太虚を以て其主義とせじにあらず、

中斎にありては帰太虚は其学の本領となれり、是故に中斎陽明に本づくと雖も、亦別に特色を存し、姚江一派に異彩を放つの看なしとせざるなり、 然れども中斎は之れを己れが創説と称することを欲せず、務めて其本づく所あるを証し、以て述べて作らざるの意を表白せり、

箚記の序文中に云く、

中斎己れが学の祖述に過ぎざるを明かにせんが為めに儒門空虚聚語を著はし、上は周易論語等より下は明清諸家に至るまで、凡そ帰太虚に関する言論を輯録せり、然れども支那哲学者中にありて最も太虚説を主張したるは張横渠なり、中斎或は横渠に得る所あるか、箚記の下巻に引用せる横渠の諸語大抵中斎が帰太虚の旨意を道破せるを以て之れを察知すべきなり、

然れども彼れ自らは弁じて曰く「吾太虚の説、致良知より来たる、正蒙より来たらず」と、

又之れを考ふるに、我邦にありては藤樹已に分明に帰太虚の説を道破せり、戸田氏に与ふる書に天地万物皆太虚の一気より生ずるものなるを論じ、更に一転して、云く

藤樹は此の如く方寸と太虚とを同一視し、中斎が先駆をなせり、中斎が説亦頗る仏教の空観に似たる所なきにあらず、是故に中斎自ら聚楽の序に弁じて曰く「我空と法空と本と一物、只死活の異あるのみ」と、此弁なかるべからざるなり、然れども先づ彼れが学説の要領を述べて、然して後更に評論する所あらん、


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