人皆彼の上にありて蒼々たるものを天となす、中斎思へらく、独りこれれのみ天とすべきにあらず、石間の虚若くは竹中の虚と雖も、均しく天と称すべきものなり、然るに是れ啻に外物に就いて言ふべきのみならず、又己に自身に就いて言ふべきなり、吾方寸にして虚ならば、此虚は直に口耳の虚と通じ口耳の虚は直に身外の太虚と通じて一となり、而して際限なく四海を包括し、宇宙を含容して捉捕すべからざるものなりと、
中斎は此の如くにして人天合一の樞紐を執へ来たれり、今身外を見れば虚なり、此虚は大にしては太虚、小にしては我方寸、此れと彼れと直に相通じて、区別すべきものなし、太虚は即ち我方寸中に存し、我方寸は太虚を包容す、是を以て中斎は身外の虚を以て我心の本体とし、心外の悲喜総べて我心中の事件となせり、其言に云く、
陽明が所謂「心即ち理なり、天下又心外の理らんや」と其帰を同
うす、
若し形より言へば心身を裏み、心本と身内にありと雖も、若し道より言へば、心身を裏み、身反りて心内にあり、身を以て心内にありとするものは常に超脱の妙を得て、我れ物を役し、物の為めに役せらるヽことなし、然れども若し我心にして欲あらば塞がる、塞がれば虚にあらず、虚にあらざれば頑然たる一小物にして即ち小人なり、
常人有する所の方寸の虚と雖も、聖人方寸の虚と異なる所なし、気質に至りては清濁昏明の差なき能はざるも、方寸の虚は同じからざるなし、
猶ほ貧人室中の虚、貴人室中の虚と同一の虚にして、四面牆璧、上下屋牀は美悪精粗の同じからざるものあるが如し、
是故に何人も欲心を打払って太虚に帰すれば、天其心にあり、聖人と何ぞ擇ばん、是故に如何なる人も聖人の地位に達せんと欲せば達し得ざることなし、聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚即ち言はざるの聖人なり、乃ち知る聖人と太虚と畢竟異なる所あるにあらざるを、
然らば如何にして太虚に帰すべきか、必ず誠意慎独より入るべし、意誠なれば忿恐懼好楽憂患する所あるなし、即ち悉々く情欲を一掃して太虚に帰するを得、
若し一の情欲と雖も、中に存するあらば、太虚にあらざるなり、心、太虚に帰せざれば、必ず動く、何んとなれば形あるものは、凌雲の喬獄、無底の大海と雖も、必ず地震に動揺す、然れども地震は太虚を動かすこと能はず、故に心、太虚に帰して始めて不動を語るべきのみ、
又形質あるものは、大なりと雖も、限りあり、而して必ず滅す、形質なきものは、微なりと雖も、涯りなし、而して亦伝ふ、高岳桑田、或は崩れ、或は海となる、而して唾壺の虚は即ち太虚の
なり、唾壺、毀つと雖も、其虚は乃ち太虚に帰して万古不滅なるものなり、
之れを要するに、中斎は胸中一切の妄念を絶滅して、些の情欲を留めざれば即ち心已に太虚に帰せりとし、聖人の地位、此れに外ならずとするものなり、此の如く、心太虚に,帰するを以て人生の目的とせば、是れ禅と其帰を一にするものに似たり、中斎乃ち之れを弁じて曰く、
又之れを考ふるに、中斎が虚と仏教の空と異なるは、唯々之れに到達する方法の如何にあるのみにあらず、又虚に帰したる状態にあるなり、仏教は情欲を断減して人倫を離れんとするなり、即ち解脱を期するなり、然 るに中斎は到底人倫を離るヽを欲せざるなり、故に弁じて曰く、
又曰く、
此れに由りて之れを観れば、中斎が学は禅に酷似すと雖も、亦禅と同一視すべからざるものあり、
中斎が所謂太虚は胸中の雲霧と一掃して、何等の情欲をも有せざる心境を意味するが故に、全く消極的のものなるが如し、然れども其実、決して消極的のものにあらず、換言すれば、太虚は心的作用の停止せるを謂ふにあらず、中斎は乃ち良知を以て太虚とせり、其言に云く
又云く、
又云く、
然らば如何にして良知を養成するを得べきか、中斎思へらく、唯々胸中の雲霧を一掃せば、良知自ら其光を放ちて来らんと、彼れ尽し吾人々類の心の本体を以て太虚とするなり、是故に情欲を絶滅すれば、自ら太虚に帰す、太虚は即ち一霊明に外ならざるなり、其言に云く、
此れに由りて之れを観れば、中斎が所謂太虚の消極的ならざること、以て知るべきなり、彼れ亦天地間一切のものは.悉々く太虚より分出すとせり、其論旨、口力論師説く所と一致するものあるは、亦一奇と謂ふべし、中斎は又太虚を以て一切道徳の因りて出づる所とせり、是故に太虚は太極の異名と謂ふも不可なかるべきなり