Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.1.19

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「大 塩 中 斎」 その26

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎
第三 学 風
 第六 死生の説

中斎は死生に関しては、甚だ佛教の涅槃に類するの説を持せり、彼れ己に太虚を以て吾人の本体とし、吾人の方寸にして私欲の為めに塞がるヽことなければ、吾人乃ち太虚に帰するを得べしとせり、然るに太虚は常住不滅のものにして有形物の如くに生々して已まざるものにあらず是故に吾人にして已に太虚に帰するを得ば、吾人は不生不滅の域に入るものなり、是れ荘子の所謂、不死不生にして佛教の涅槃と何等の異同かある、

中斎が太虚は一切の心的作用を絶滅したる消極的の状態を謂ふにあらず、唯,私欲の情を撤去したる状態なるのみ、私欲の情を撤去すれば、良知の光炯々として発射し来たる、是れを仁となす、仁は永遠に減することなきものなり、箚記の上に云く、

又箚記の下に曰く、

中斎が学によれば、人其形体を頼んで私欲を逞うすれば滅びざるを得 ざるも、若し私欲を打ち払つて太虚に帰すれば、已に不生不滅なるもの なり、換言すれば、長在不滅なるものなり、我れ已に長在不滅の境界にあ れれば、如何なる危難も毫も畏るヽに足らず、能く其確然不動の状態を持 するもの、此に因由せずんばあらざるなり、箚記の上に云く、

心已に太虚に帰すれば身死す雖も、滅びざるものあり、故に身の死す るを恐れず、唯々心の死するを恐るヽなり、心果して死せざるを知らば、世 に於て恐るヽ所なし、是に於てか決心あり、此決心は如何なるものも動揺 すること能はざる所なり、此の如くなれば是れ天命を知るものと謂 ふべきなり、箚記の下に云く

中斎死生の間に於て其決心をなすべき根底を発見せり、蓋し死生は最 も人をして迷はしむる所なり、中斎此点に就いて動揺せざるの工夫を なせり、其万難に当りて趨避せざるもの、誠に故ありこ謂ふべきなり、


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