中斎は死生に関しては、甚だ佛教の涅槃に類するの説を持せり、彼れ己に太虚を以て吾人の本体とし、吾人の方寸にして私欲の為めに塞がるヽことなければ、吾人乃ち太虚に帰するを得べしとせり、然るに太虚は常住不滅のものにして有形物の如くに生々して已まざるものにあらず是故に吾人にして已に太虚に帰するを得ば、吾人は不生不滅の域に入るものなり、是れ荘子の所謂、不死不生にして佛教の涅槃と何等の異同かある、
中斎が太虚は一切の心的作用を絶滅したる消極的の状態を謂ふにあらず、唯,私欲の情を撤去したる状態なるのみ、私欲の情を撤去すれば、良知の光炯々として発射し来たる、是れを仁となす、仁は永遠に減することなきものなり、箚記の上に云く、
生を求めて以て仁を害することなし、夫れ生は滅あり、仁は太虚の徳 にして、而して萬古不滅のものなり、萬古不滅のものを舎てヽ而して滅することあるものを守るは、惑なり、故に志士仁人、彼れを舎てヽ此れを取る、誠に理あるかな、常人の知る所にあらざるなり、
又箚記の下に曰く、
太虚なり、気なり、万物なり、道なり、神なり、皆一物にして、而して聚散の殊なるのみ、要するに太虚の変化に帰するなり、故に人、神を存して以て性を盡くせば、則ち散じて死すと雖も、其方寸の虚は太虚と混一して同流、朽ちず亡びず、人如し虚を失はずして此に至れば亦大なり盛なり、
中斎が学によれば、人其形体を頼んで私欲を逞うすれば滅びざるを得 ざるも、若し私欲を打ち払つて太虚に帰すれば、已に不生不滅なるもの なり、換言すれば、長在不滅なるものなり、我れ已に長在不滅の境界にあ れれば、如何なる危難も毫も畏るヽに足らず、能く其確然不動の状態を持 するもの、此に因由せずんばあらざるなり、箚記の上に云く、
常人天地を視て無窮となし、吾れを視て暫となす、故に欲を血気荘時 に逞うするを以て務となすのみ、而して聖賢は則ち独り天地を視て 無窮となすのみならず、吾れを視て、亦以て天地となす、故に身の死す るを恨みずして心の死するを恨む、心死せざれば、則ち天地と無窮を争ふ、是故に一日を以て百年となし、心凛乎として深淵に臨むが如し、 須臾も放出せざるなり、故に又嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引かず、要するに、人欲を去り、天理を存するのみ、
心已に太虚に帰すれば身死す雖も、滅びざるものあり、故に身の死す るを恐れず、唯々心の死するを恐るヽなり、心果して死せざるを知らば、世 に於て恐るヽ所なし、是に於てか決心あり、此決心は如何なるものも動揺 すること能はざる所なり、此の如くなれば是れ天命を知るものと謂 ふべきなり、箚記の下に云く
利害生死の境に臨み、真に趨避の心を起さゞれば、則ち未だ五十に至らざるして乃ち天命を知るなり、而して其心を動かして以て趨避するものは、則ち百歳の老人と雖も実に夢生のみ云云
中斎死生の間に於て其決心をなすべき根底を発見せり、蓋し死生は最 も人をして迷はしむる所なり、中斎此点に就いて動揺せざるの工夫を なせり、其万難に当りて趨避せざるもの、誠に故ありこ謂ふべきなり、